「あ」行の人々
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■ 青山忠成(あおやまただなり): 「青山」の名字。1551−1613年。若いときから徳川家康に仕え、家康の信任があつく、徳川秀忠の守り役をつとめた。江戸町奉行、関東総奉行として、知行割や民政に尽力した。現在の東京都青山の地名は屋敷地の一部であったことに由来する。【出典

■ 青山宗勝(あおやまむねかつ): 「青山」の名字丹羽長秀の家臣で、後に豊臣秀吉の直参となり、関ヶ原の戦いでは西軍に属して除封。丸岡4万6千石の青山宗勝の子孫は二本松藩士。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

■ 赤松満祐(あかまつみつすけ): 1373−1441年。播磨国美作国備前国守護。有力守護の圧迫を強めた六代将軍の足利義教に危機感を抱き、1441年に義教を自邸に招いて謀殺した。これを嘉吉の乱という。この後、満祐は播磨国に籠もったが、山名氏らの諸将に攻められて自害した。【出典

■ 秋田実季(あきたさねすえ): 1576−1660年。安東愛季の子。12歳で家督を継いで、一族内の争いを治めた。出羽国秋田郡などを治めて、朝鮮出兵や関ヶ原の合戦にも参陣した。その後は徳川家に仕えたが、徳川家康の命で領地を移されて、常陸国宍戸藩の初代藩主になった。【出典

■ 安達泰盛(あだちやすもり): 1231−1285年。北条氏の有力御家人評定衆。八代執権北条時宗を外戚として支えた。元寇の後に、幕政の改革に取り組んだが、内管領(北条氏の宗家の執事)の平頼綱と対立した。1285年に、源頼綱勢に敗れて、自害した。これを霜月騒動という。その結果、得宗(北条氏の宗家)の権力が絶対化した。【出典

■ 阿弖流為(あてるい): ?ー802年。蝦夷の族長の阿弖流為は北上川流域を支配し、789年に桓武天皇の命で、征東大使として胆沢に大軍を進めた紀古佐美を、少数の軍勢で大軍を撃退した。その後の大伴弟麻呂と坂上田村麻呂には敗れて、胆沢から志波の地域から撤退した。【出典

■ 阿倍内麻呂(あべのうちまろ): ?ー649年。推古天皇の崩御後の皇位争いで蘇我蝦夷側についた。大化の改新では旧豪族の長老として左大臣の地位に就いた。【出典

■ 安倍貞任(あべのさだとう): 1019−1062年。安倍頼時の子。前九年の役で活躍し東北各地で戦った。父の頼時の戦死後には、跡を継いで、黄海(きみ)の戦いでは、源頼義軍に勝利したが、国府側が清原氏と与したため劣勢になって、厨川柵で敗死した。【出典

■ 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ): 698?ー770?年。717年に遣唐使として唐に留学した。科挙に合格して、唐の高官になった。玄宗皇帝に重用されて、李白らと交友した。帰国を志したが、船が難破して、帰国は叶わなず、長安で死去した。【出典

■ 阿倍比羅夫(あべのひらふ): 生没年不詳。北陸地方の国守として、大船団を組織し、蝦夷を討った。白村江の戦いにも百済救援のために参加したが、新羅と唐の連合軍に大敗した。【出典

■ 阿部正静(あべまさきよ): 1850−1878年。白河藩主。白河藩主の阿部正外(まさと)の長男。父の正外が勅許無く兵庫を開港したことで隠居させられ、正静が家督を継いだが、棚倉藩に移封された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わったが降伏した。【出典

■ 安倍頼時(あべのよりとき): ?ー1057年。陸奥国の土豪。奥六郡(陸奥国の北部で、衣川以北の胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、磐井の六郡)で勢力を持った。安倍貞任、安倍宗任の父。奥州藤原氏の初代の藤原清衡は孫。朝廷に従わずに、前九年の役を起こしたが、鳥海柵で敗北した。【出典

■ 尼子勝久(あまごかつひさ): 1553−1578年。東福寺の僧になったが、1566年に毛利氏に滅ぼされた一族の再興を願って、織田信長の配下となった。しかし、毛利氏の攻撃で、上月城で籠城の上、1578年に降伏して自害した。【出典

■ 尼子国久(あまごくにひさ): 1492−1554年。尼子経久の次男。主君で、甥の尼子晴久のもとで、戦闘集団の新宮党の頭領を務めた。尼子氏の勢力拡大に功を成したが、対立を深めた晴久によって子の誠久(さねひさ)らと共に誅殺された。【出典

■ 尼子経久(あまごつねひさ): 1458ー1541年。月山富田城主になって勢力を拡大した。隠岐国石見国伯耆国備後国を領した。【出典

■ 尼子義久(あまごよしひさ): ?ー1610年。尼子晴久の子。毛利元就と石見銀山をめぐっての争いを和議にもちこもうとしたが、家臣の離反によって銀山を失った。【出典

■ 荒木村重(あらきむらしげ): 1535−1586年。伊丹氏の討伐や本願寺攻めで功を成したが、織田信長に謀反の嫌疑をかけられて、反逆を決意した。有岡城に籠城したが、妻子を残して脱出。妻子や家臣が処刑されるのを見殺しにして毛利氏のもとに逃亡した。【出典

■ 有間皇子(ありまのみこ): 640−658年。孝徳天皇の皇子。父の死後、政争に巻き込まれるのを恐れ、狂気を装った。蘇我赤兄(あかえ)に謀られ、中大兄皇子の打倒の意思をもらし、絞首刑にされた。【出典

■ 有馬晴信(ありまはるのぶ): 1561?ー1612年。キリシタン大名。日野江藩(佐賀県)の初代藩主となったが、1609年に岡本大八事件によって贈賄の罪を負い、追放された後に、切腹した。【出典

■ 在原業平(ありわらのなりひら): 公家で歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人で勅撰和歌集に多くの歌が収載されている。「伊勢物語」の主人公という。【出典

■ 粟田口吉光(あわたぐちよしみつ): 京の刀工。鎌倉の岡崎正宗と共に当代の名刀鍛冶の双璧といわれる。【出典

■ 安東愛季(あんどうちかすえ): 1539−1587年。出羽国戦国大名安東家の最盛期を築いた武将という。【出典

■ 生田万(いくたよろず): 1801−1837年。館林藩士の子。越後国柏崎で私塾を開いたが、大飢饉がおこった。代官や豪商の不正があったため、大塩平八郎の乱に呼応して、貧民救済のための生田万の乱を蜂起、陣屋を襲撃した。乱は鎮圧されて、自刃した。【出典

■ 生駒一正(いこまかずまさ): 1555−1610年。讃岐国高松藩主になった生駒親正の長男。父とともに織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉の家臣になった。朝鮮出兵では親子で活躍した。関ヶ原の合戦では徳川家康の会津出兵に参陣したため、寺沢広高らと遊撃隊として奮戦した。父は国元にいて西軍に属さざるを得なかったので家臣を派遣させたが、一正の功によって所領は安堵された。1601年に家督を継いで、讃岐国の高松藩主になった。まだ参勤交代の制度ができる前にもかかわらず、妻子を江戸屋敷に住まわせたので、徳川秀忠に忠義を賞賛されて、生駒家の軍役を半分に減らすとの朱印状を賜った。【出典

■ 生駒高俊(いこまたかとし): 高松藩主。父の死を受けて11歳で讃岐国の高松藩17万石を継いだ。美少年趣味にとりつかれ、「若衆踊り」に熱中した。江戸では吉原通いで散財した。幕府は高松17万石を取り上げて、出羽国矢島藩へと転封させた。【出典

■ 生駒親正(いこまちかまさ): 1526ー1603年。はじめは織田信長に仕えたがのちに豊臣秀吉に仕えた。軍功によって讃岐国(香川県)を賜った。関ヶ原の合戦では西軍に属したが、家臣を派遣しただけで、子の一正は東軍に属したため、所領は安堵された。【出典

■ 石川数正(いしかわかずまさ): ?ー1592年。徳川家康今川家の人質だった頃から仕えていた。徳川家の筆頭家老として重用されたが、小牧・長久手の合戦ののちに徳川家を出奔。その後豊臣秀吉に仕えた。松本城の改築で有名。【出典

■ 石川貞清(いしかわさだきよ): 使番(つかいばん)の一人として豊臣秀吉に仕え、小田原征伐で功を成して犬山城主になった。【出典

■ 出雲阿国(いずものおくに): 歌舞伎の創始者といわれる女性芸能者。巫女として、出雲大社勧進興行で各地をまわって、1603年に北野天満宮の興行で男装で演じ、京で注目を浴びた。江戸城で上演後に、消息不明。【出典

■ 石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ): 729−781年。奈良時代末期の文人。大納言を務めた。旧宅を寺にして、その書庫を公開した。芸亭(うんてい)と名付けられ、日本最初の公開図書館と言われる。【出典

■ 板垣信方(いたがきのぶかた): 1489?ー1548年。武田信虎武田信玄の二代に仕えた。若い信玄が、遊蕩にふけっていたのをいさめた。武田家の重臣として、諏訪衆を率いて活躍した。村上義清との上田原の戦いで討ち死にした。【出典

■ 市川房枝(いちかわふさえ): 1893−1981年。平塚らいてうらと、新婦人協会を設立。婦人参政権獲得期成同盟会をつくって、委員長になった。第二次世界大戦の時には大政翼賛会の活動に協力し、戦後は一時公職停止になったが、解除後に参議院議員になった。【出典

■ 一条兼定(いちじょうかねさだ): 1543−1585年。一条氏の一門の混乱に乗じた長宗我部氏より、領土を侵攻された。1575年にはキリスト教に入信した。再興をはかって、土佐国に侵攻したが大敗した。これを四国四万十川の戦いという。【出典

■ 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき): 推古天皇の時代の614年に、結果的には最後の遣隋使として派遣された。隋が滅びて、唐になると、630年に第一回の遣唐使として舒明天皇から派遣された。【出典

■ 井上毅(いのうえこわし): 1843−1895年。肥後国の出。フランス、ドイツに留学して、ドイツ式の国家体制樹立を主張。伊藤博文とともに、大日本帝国憲法や教育勅語の起草に参加して、文部大臣をつとめた。【出典

■ 井上正甫(いのうえまさもと): 浜松藩主。井上正甫は浜松藩主6万石。鷹狩りの途中で大失敗をした。一軒の農家で水を貰おうとしたところ、健康的な女房が出てきた。正甫はふらふらと押し倒した。そこに夫が帰ってきて大騒ぎになった。正甫は「密夫大名」と言われ、それが広まった。幕府は文化14年(1817年)に、正甫に陸奥国棚倉藩への転封を命じた。【出典

■ 今井宗久(いまいそうきゅう): 1520−1593年。堺の商人で、千利休津田宗及と並んで茶の湯の天下三宗匠と称された茶人。織田信長に重用されて、生野銀山開発など、さまざまな特権を得たが、本能寺の変後には、豊臣秀吉に仕えた。【出典

■ 今井宗薫(いまいそうくん): 1552−1627年。今井宗久の子で、堺の豪商で茶人。豊臣秀吉の御伽衆(相談役)を務めたのちに、徳川家康に接近。松平忠輝と伊達政宗の娘の五郎八姫の結婚を仲介したが、秀吉の遺命に逆らうものとして批判を受けた。茶人として江戸幕府に仕え、商人として朱印船貿易も行い、朱印船を多く派遣した。【出典

■ 今川了俊(いまがわりょうしゅん): 1326ー?。武将で歌人。本名は貞世。1371年に九州探題になって、九州の南朝勢力を制圧して大宰府奪還した。【出典

■ 壹与(いよ): 235年頃〜?。魏志倭人伝によると、卑弥呼の死後、男子の王が即位すると、卑弥呼が即位する前と同様の内乱がおきて、約1000人が死んだ。そこで、再度女王として13歳の壹与が抜擢されたところ、国がうまく治まったという。壹与は卑弥呼の親族だったという。【出典

■ 磐井(いわい): ?ー528年。古代の九州北部の豪族。筑紫君(地方官)。527年に、朝鮮半島南部の任那を救援するために、渡航しようとする大和朝廷軍6万を阻んで、乱をおこしたが、物部あら鹿火や大伴金村らによって鎮圧された。【出典

■ 岩城常隆(いわきつねたか): 1567−1590年。陸奥国戦国大名。母方が佐竹氏の出身で、叔父が伊達輝宗。1586年の人取橋の戦いでは佐竹氏方で参戦して、伊達氏の重臣を討ったが、1589年に政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後には、伊達氏に従った。【出典

■ 宇喜多能家(うきたよしいえ): ?ー1534年。浦上氏に仕え、赤松氏と対立して参陣した。1531年に主君の浦上村宗が討ち死にした後に、砥石城で隠居生活を送ったが、島村盛実の奇襲をうけて自害した。【出典

■ 内村鑑三(うちむらかんぞう): 1861−1930年。高崎藩の出。教員のときに、キリスト教徒として教育勅語に最敬礼をせずに退職になった。無教会主義を唱えた。【出典

■ 宇都宮国綱(うつのみやくにつな): 1568−1608年。下野国戦国大名北条氏の侵攻に対抗した。豊臣秀吉小田原攻めで功を成したが、突然改易された。再興をかけて慶長の役に参陣したが、豊臣秀吉の死で望みを絶たれた。【出典

■ 宇喜多直家(うきたなおいえ): 1529ー1582年。備前国(岡山県)の戦国大名。浦上宗景のもとで頭角をあらわした。その後、宗景を播磨国に退けて勢力を拡大したが、のちに織田信長に従った。その後は毛利氏と対立した。【出典

■ 歌川広重(うたがわひろしげ): 1797−1858年。浮世絵師。安藤広重とも。江戸の火消し同心の家に生まれ、歌川豊廣に師事し、1832年に浮世絵師になった。代表作は東海道五十三次や名所江戸百景。ゴッホやモネに影響を与えた。【出典

■ 円珍(えんちん): 814−891年。14歳で最澄の弟子の義真について天台宗の修行をはじめた。入唐は新羅の商人の船で853年のこと。その後、天台教学・密教を学んだ。858年の帰国後、延暦寺第五世座主になって、天台宗の密教化を進めた。【出典

■ 円仁(えんにん): 794−864年。15歳で最澄の弟子になった。838年に唐に入り、天台教学・密教を学んだ。847年に帰国後には延暦寺第三世座主に任ぜられ、天台宗山門派の祖となって、天台宗は密教化した。【出典

■ 淡海三船(おうみのみふね): 722−785年。大友皇子の曽孫。大学頭(だいがくのかみ)文章博士(もんじょうはかせ)に任ぜられ、神武天皇から光仁天皇漢風諡号を撰した。【出典

■ 大内政広(おおうちまさひろ): 1446−1495年。長門国豊前国などの守護職をつとめた守護大名応仁の乱で西軍に加わって勢力を回復した。和歌や連歌に通じて、宗祇や雪洲とも親交があった。【出典

■ 大内義隆(おおうちよしたか): 1507−1551年。大内義興の長男。父親の死後、六カ国の守護職を継いだが、京から公家や学者を招くなど興味の中心が学芸面に移った。義隆の文治主義は武断派の家臣との亀裂を生じ、陶晴賢(すえはるかた)の謀反で自害した。【出典

■ 大内義長(おおうちよしなが): 1532−1557年。大友宗麟の弟で、大内義隆の養子になったが、嫡子が生まれたため解消。1551年に、陶晴賢が謀反をおこして、義隆を殺害すると、大内氏の新当主として擁立された。陶晴賢が厳島の戦いで敗死したあと、毛利氏の攻撃を受けて、敗走の上自害して、大内氏は滅亡した。【出典

■ 大内義弘(おおうちよしひろ): 1356−1399年。周防国和泉国ほか六カ国の守護を務めた。明徳の乱などに功をなしたが、貿易の独占による富強をおそれた足利義満の挑発をうけて挙兵した。堺に籠城したが敗死した。これを応永の乱という。【出典

■ 大江広元(おおえひろもと): 1148ー1225年。公家の出。源頼朝に仕えて政所初代別当になって、守護地頭の設置に関わった。源頼朝の死後は、北条義時北条政子のもとで鎌倉幕府の幕政に携わった。【出典

■ 大江匡房(おおえのまさふさ): 1041−1111年。公家、歌人。正二位の権中納言までのぼりつめた。【出典

■ 大崎義隆(おおさきよしたか): 1548−1603年。陸奥国大崎を領した。伊達氏のもとから独立を図ったが失敗した。豊臣秀吉小田原攻めに参陣しなかったため所領を没収された。御家復興に尽力したが、状況は改善せず、大崎一族は滅亡した。【出典

■ 大槻伝蔵(おおつきでんぞう): 1703−1748年。加賀藩の六代藩主の前田吉徳に仕えた重臣。吉徳は悪化していた藩の財政の立て直しのために、茶坊主出身の大槻伝蔵を抜擢して改革を主導させた。伝蔵は支出を抑え、新たな税を導入して財政を改善させたが、伝蔵の異例の出世は譜代の重臣たちの妬みを買った。吉徳の死後、伝蔵は蟄居を命ぜられて、吉徳の側室との不義密通の疑いで自害した。【出典

■ 大津皇子(おおつのみこ): 663−686年。天武天皇の皇子。母は天智天皇の娘で、後の持統天皇の姉。文武に秀でて、人望が厚かった。天武天皇の死後、密告で謀反の疑いをかけられて、自害した。【出典

■ 大伴金村(おおとものかなむら): 古代の中央豪族武烈天皇から欽明天皇時代の大連(おおむらじ)。527年におきた磐井の乱を物部あら鹿火らと共に平定した。欽明天皇のときに、任那四県を百済に割譲したことが問題となって失脚した。【出典

■ 大友黒主(おおとものくろぬし): 歌人。勅撰和歌集に11首が収録されている。【出典

■ 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ): 歌人。大納言の大伴安麻呂の娘。大伴旅人の異母妹。夫と死別後に、大宰府に赴いて旅人を助けてた。【出典

■ 大伴旅人(おおとものたびと): 貴族、歌人。大納言。征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧した。60歳で大宰府の長、師になって、山上憶良たちと九州の筑紫歌壇を形成した。【出典

■ 大友皇子(おおとものみこ): 648ー672年。天智天皇の皇子。太政大臣になって、大海人皇子(おおあまのおうじ・天武天皇)と対立した。天智天皇・大友皇子を中心とした朝廷は近江朝廷と呼ばれた。壬申の乱で敗れて自害した。【出典

■ 大伴家持(おおとものやかもち): 718?ー785年。公家、歌人。中納言。「万葉集」に最多の歌を残し、編者の一人と言われる。死後、藤原種継の暗殺事件に関わったとされ、除名された。【出典

■ 太安万侶(おおのやすまろ): ?ー723年。元明天皇の文官。711年に、稗田阿礼の誦習(しょうしゅう)した神話や歴史を筆録し、史書を編纂するように詔をうけた。翌年に「古事記」三巻を献上した。「日本書紀」の編纂にも携わったという。【出典

■ 大庭景義(おおばかげよし): ?ー1210年。源義朝に従い、保元の乱で敵対した源為朝の矢によって負傷して隠居したが、源頼朝が挙兵すると従った。その後、幕府の長老格として、頼朝を助けた。【出典

■ 大原幽学(おおはらゆうがく): 1797−1858年。尾張藩士の出で、勘当されて西日本を放浪後に下総国長部村に土着して、神道・仏教・儒教を一帯とする「性学(せいがく)」を講ずるようになった。しかし、農村復興指導の影響が広まると、幕府にあらぬ嫌疑をかけられて、自刃した。【出典

■ 大村純忠(おおむらすみただ): 1533−1587年。キリシタン大名。龍造寺氏と対立する中で長崎港を開港し、町と財政の活性化に成功。【出典

■ 大森氏頼(おおもりうじより): ?ー1494年。小田原城主。永享の乱の際に、鎌倉公方から室町幕府方について、上杉家に従った。小田原城下を整備して、相模国西部を支配した。【出典

■ 岡崎正宗(おかざきまさむね): 相模国の鎌倉に居住した刀鍛冶。五郎入道正宗ともいう。【出典

■ 小笠原長時(おがさわらながとき): 1514−1583年。信濃国守護。1548年に花岡家、矢島家と結んで、武田信玄と塩尻峠で戦ったが敗れた。本拠地の林城(長野県)も失って没落した。【出典

■ 小笠原長行(おがさわらながみち): 1822−1891年。唐津藩主の小笠原長昌の長男。老中に抜擢された。生麦事件が起こると、事態収拾のため幕府に無断で賠償金をイギリスに支払い、老中を罷免された。徳川慶喜が将軍に就くと、老中に復帰、外国事務総裁についた。戊辰戦争では函館で敗北した。【出典

■ 岡田以蔵(おかだいぞう): 1838−1865。土佐藩の下級藩士の出。武市半平太に一刀流の剣術を学んだ。武市の結成した土佐勤王党に入り、武市の指示で役人や与力の数々を天誅と称して暗殺して、人斬り以蔵の異名をとった。幕吏に捕縛されると、拷問に耐えかねてこれまでの暗殺を自白。斬首された。【出典

■ 尾形光琳(おがたこうりん): 1658−1716年。画家で工芸家。京の呉服商であった雁金屋に生まれた。若い頃から遊蕩にふけり、30歳で父親の莫大な遺産を使いはたす。【出典

■ 岡部宣勝(おかべのぶかつ): 1597−1668年。大坂の陣で功をなし、大垣藩主などを経て和泉国岸和田藩の初代藩主になった。前領主による悪政で領民が反発したのを、武力を行使せずに沈静化させ、善政に努めた名君という。【出典

■ 小川祐忠(おがわすけただ): ?−1601年。近江国の出。浅井氏に仕えたのちに、織田信長に降伏した。その後、羽柴秀吉に仕え、小田原攻め文禄の役などの功で伊予国で7万石を領した。関ヶ原の合戦では大谷吉継に属したが、小早川秀秋に呼応して東軍に加担したが、不鮮明だったとして改易になった。【出典

■ 沖田総司(おきたそうじ): 1844?ー1868年。新撰組の一番隊組長。1863年に浪士組に参加し、上洛。その後、近藤勇らとともに新撰組を結成した。池田屋事件や禁門の変に参戦したが結核で病死した。【出典

■ 荻生徂徠(おぎゅうそらい): 1666−1728年。古義学に対立する古文辞学を確立して、天下を泰平に導く経世論を説いた。柳沢吉保に仕え、八代将軍吉宗の政治的提言になった。【出典

■ 刑部親王(おさかべしんのう): ?ー705年。天武天皇の皇子。天武天皇の命によって700年に、藤原不比等らと律令改修事業を指揮した。翌年、大宝律令が完成した。【出典
# 刑部親王: 忍壁皇子(おさかべのみこ)は、飛鳥時代の皇族である。天武天皇の皇子で母は宍戸臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘。天武天皇元年(672年)の壬申の乱で父天武天皇に従い吉野から東国に赴く。

■ 長船長光(おさふねながみつ): 備前国長船の刀鍛冶。子孫にも名人が多く長船物、備前物として有名。【出典

■ 小野寺景道(おのでらかげみち): 1534−1597年。出羽国の武将。小野寺家の十三代当主。大和田光盛や金乗坊(こんじょうぼう)らに父を殺されて横手城を奪われたが、その後に両氏を滅ぼして奪還。勢力を拡大して、安東氏らと対峙した。【出典

■ 小野妹子(おののいもこ): 生没年不詳。近江国豪族の出。国書を携えて隋に派遣された(遣隋使)。【出典

■ 小野小町(おののこまち): 女流歌人。出羽国郡司小野良真の娘で、小野篁の孫という説がある。六歌仙・三十六歌仙の一人。美貌の歌人として多くの伝説が残る。【出典

■ 小野篁(おののたかむら): 802ー852年。公家、学者、歌人。小野妹子の子孫で漢詩和歌に秀でた。「令義解」の編纂に加わった。遣唐副使になったが、大使の藤原常嗣と争い、乗船を拒否した。隠岐国に流されたがのちに許されて参議になった。【出典

■ 小野道風(おののみちかぜ・とうふう): 書家。三蹟の一人。小野篁の孫。中国書道を基礎に、日本風の上代様を創始した。【出典

■ 小野好古(おののよしふる): 884−968。小野篁の孫。三蹟のひとりの小野道風の兄。941年に、追捕使になって源経基とともに、大宰府を襲撃した藤原純友を鎮圧した。これを天慶の乱という。参議として公卿に列した。【出典

■ 飯富虎昌(おぶとらまさ): 1504?ー1565年。甲斐国の出で、武田信虎武田信玄に仕えた。宿老として、また信玄の嫡男の義信の守り役もつとめた。信濃国への侵攻などで義信の謀反を弟の山県昌景が密告。首謀者とされて自害した。【出典

■ 小山高朝(おやまたかとも): 下野国の武将。次の代の古河公方をめぐって北条氏康と対立したが、敗北して引退した。一時は上杉謙信に従ったが、1562年に上杉謙信に攻められて降伏し、その後出家した。【出典

■ 小山田信茂(おやまだのぶしげ): 1539−1582年。甲斐国武田家の譜代の家老衆の一人で、武田信玄の従弟にあたる。武田信玄や武田勝頼に仕えたが、織田信長との戦いで武田勝頼を裏切って、武田家を滅亡に追い込んだ。その後、嫡男とともに不忠を咎められて、殺害された(誰に?)。【出典
・ 丸に抱き茗荷紋。武田家の譜代の家臣で、母は武田信玄の父の信虎の妹にあたり、信玄とは従兄弟にあたる。武田家家中随一の勇将と言われ、三方ヶ原の戦いでは徳川家康の懐刀と言われた石川数正の舞台と対決した。【出典

■ 小山持政(おやまもちまさ): 守護大名下総国結城家と親密であったが、永享の乱結城合戦で幕府方について勝利した。下野国守護に復帰して、宗家断絶後の復興を遂げた。【出典


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