「あ」行の人々
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■ 青山忠成(あおやまただなり): 「青山」の名字。1551−1613年。若いときから徳川家康に仕え、家康の信任があつく、徳川秀忠の守り役をつとめた。江戸町奉行、関東総奉行として、知行割や民政に尽力した。現在の東京都青山の地名は屋敷地の一部であったことに由来する。【出典

■ 青山宗勝(あおやまむねかつ): 「青山」の名字丹羽長秀の家臣で、後に豊臣秀吉の直参となり、関ヶ原の戦いでは西軍に属して除封。丸岡4万6千石の青山宗勝の子孫は二本松藩士。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

■ 安倍貞任(あべのさだとう): 1019−1062年。安倍頼時の子。前九年の役で活躍し東北各地で戦った。父の頼時の戦死後には、跡を継いで、黄海(きみ)の戦いでは、源頼義軍に勝利したが、国府側が清原氏と与したため劣勢になって、厨川柵で敗死した。【出典

■ 阿倍比羅夫(あべのひらふ): 生没年不詳。北陸地方の国守として、大船団を組織し、蝦夷を討った。白村江の戦いにも百済救援のために参加したが、新羅と唐の連合軍に大敗した。【出典

■ 安倍頼時(あべのよりとき): ?ー1057年。陸奥国の土豪。奥六郡(陸奥国の北部で、衣川以北の胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、磐井の六郡)で勢力を持った。安倍貞任、安倍宗任の父。奥州藤原氏の初代の藤原清衡は孫。朝廷に従わずに、前九年の役を起こしたが、鳥海柵で敗北した。【出典

■ 尼子勝久(あまごかつひさ): 1553−1578年。東福寺の僧になったが、1566年に毛利氏に滅ぼされた一族の再興を願って、織田信長の配下となった。しかし、毛利氏の攻撃で、上月城で籠城の上、1578年に降伏して自害した。【出典

■ 尼子国久(あまごくにひさ): 1492−1554年。尼子経久の次男。主君で、甥の尼子晴久のもとで、戦闘集団の新宮党の頭領を務めた。尼子氏の勢力拡大に功を成したが、対立を深めた晴久によって子の誠久(さねひさ)らと共に誅殺された。【出典

■ 尼子経久(あまごつねひさ): 1458ー1541年。月山富田城主になって勢力を拡大した。隠岐国石見国伯耆国備後国を領した。【出典

■ 尼子義久(あまごよしひさ): ?ー1610年。尼子晴久の子。毛利元就と石見銀山をめぐっての争いを和議にもちこもうとしたが、家臣の離反によって銀山を失った。【出典

■ 有間皇子(ありまのみこ): 640−658年。孝徳天皇の皇子。父の死後、政争に巻き込まれるのを恐れ、狂気を装った。蘇我赤兄(あかえ)に謀られ、中大兄皇子の打倒の意思をもらし、絞首刑にされた。【出典

■ 有馬晴信(ありまはるのぶ): 1561?ー1612年。キリシタン大名。日野江藩(佐賀県)の初代藩主となったが、1609年に岡本大八事件によって贈賄の罪を負い、追放された後に、切腹した。【出典

■ 生駒一正(いこまかずまさ): 1555−1610年。讃岐国高松藩主になった生駒親正の長男。父とともに織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉の家臣になった。朝鮮出兵では親子で活躍した。関ヶ原の合戦では徳川家康の会津出兵に参陣したため、寺沢広高らと遊撃隊として奮戦した。父は国元にいて西軍に属さざるを得なかったので家臣を派遣させたが、一正の功によって所領は安堵された。1601年に家督を継いで、讃岐国の高松藩主になった。まだ参勤交代の制度ができる前にもかかわらず、妻子を江戸屋敷に住まわせたので、徳川秀忠に忠義を賞賛されて、生駒家の軍役を半分に減らすとの朱印状を賜った。【出典

■ 生駒高俊(いこまたかとし): 高松藩主。父の死を受けて11歳で讃岐国の高松藩17万石を継いだ。美少年趣味にとりつかれ、「若衆踊り」に熱中した。江戸では吉原通いで散財した。幕府は高松17万石を取り上げて、出羽国矢島藩へと転封させた。【出典

■ 生駒親正(いこまちかまさ): 1526ー1603年。はじめは織田信長に仕えたがのちに豊臣秀吉に仕えた。軍功によって讃岐国(香川県)を賜った。関ヶ原の合戦では西軍に属したが、家臣を派遣しただけで、子の一正は東軍に属したため、所領は安堵された。【出典

■ 石川数正(いしかわかずまさ): ?ー1592年。徳川家康今川家の人質だった頃から仕えていた。徳川家の筆頭家老として重用されたが、小牧・長久手の合戦ののちに徳川家を出奔。その後豊臣秀吉に仕えた。松本城の改築で有名。【出典

■ 石川貞清(いしかわさだきよ): 使番(つかいばん)の一人として豊臣秀吉に仕え、小田原征伐で功を成して犬山城主になった。【出典

■ 板垣信方(いたがきのぶかた): 1489?ー1548年。武田信虎武田信玄の二代に仕えた。若い信玄が、遊蕩にふけっていたのをいさめた。武田家の重臣として、諏訪衆を率いて活躍した。村上義清との上田原の戦いで討ち死にした。【出典

■ 一条兼定(いちじょうかねさだ): 1543−1585年。一条氏の一門の混乱に乗じた長宗我部氏より、領土を侵攻された。1575年にはキリスト教に入信した。再興をはかって、土佐国に侵攻したが大敗した。これを四国四万十川の戦いという。【出典

■ 井上正甫(いのうえまさもと): 浜松藩主。井上正甫は浜松藩主6万石。鷹狩りの途中で大失敗をした。一軒の農家で水を貰おうとしたところ、健康的な女房が出てきた。正甫はふらふらと押し倒した。そこに夫が帰ってきて大騒ぎになった。正甫は「密夫大名」と言われ、それが広まった。幕府は文化14年(1817年)に、正甫に陸奥国棚倉藩への転封を命じた。【出典

■ 宇喜多能家(うきたよしいえ): ?ー1534年。浦上氏に仕え、赤松氏と対立して参陣した。1531年に主君の浦上村宗が討ち死にした後に、砥石城で隠居生活を送ったが、島村盛実の奇襲をうけて自害した。【出典

■ 宇喜多直家(うきたなおいえ): 1529ー1582年。備前国(岡山県)の戦国大名。浦上宗景のもとで頭角をあらわした。その後、宗景を播磨国に退けて勢力を拡大したが、のちに織田信長に従った。その後は毛利氏と対立した。【出典

■ 大内義隆(おおうちよしたか): 1507−1551年。大内義興の長男。父親の死後、六カ国の守護職を継いだが、京から公家や学者を招くなど興味の中心が学芸面に移った。義隆の文治主義は武断派の家臣との亀裂を生じ、陶晴賢(すえはるかた)の謀反で自害した。【出典

■ 大内義長(おおうちよしなが): 1532−1557年。大友宗麟の弟で、大内義隆の養子になったが、嫡子が生まれたため解消。1551年に、陶晴賢が謀反をおこして、義隆を殺害すると、大内氏の新当主として擁立された。陶晴賢が厳島の戦いで敗死したあと、毛利氏の攻撃を受けて、敗走の上自害して、大内氏は滅亡した。【出典

■ 大江広元(おおえひろもと): 1148ー1225年。公家の出。源頼朝に仕えて政所初代別当になって、守護地頭の設置に関わった。源頼朝の死後は、北条義時、北条政子のもとで鎌倉幕府の幕政に携わった。【出典

■ 太田資正(おおたすけまさ): 1522〜1591年。北条氏と戦い続けた武将で、太田道灌の曾孫。北条氏と対立し、上杉謙信の小田原侵攻にも参戦した。常陸国佐竹義重の配下になって、片野城の城主になった。【出典

■ 太田道灌(おおたどうかん): 1432〜1486年。江戸城を築いた名将で太田資長(すけなが)のこと、扇谷上杉家家宰享徳の乱に参戦し、長尾景春の乱では景春を敗走させた。また千葉氏を牽制するために江戸城を築いた。【出典

■ 大槻伝蔵(おおつきでんぞう): 1703−1748年。加賀藩の六代藩主の前田吉徳に仕えた重臣。吉徳は悪化していた藩の財政の立て直しのために、茶坊主出身の大槻伝蔵を抜擢して改革を主導させた。伝蔵は支出を抑え、新たな税を導入して財政を改善させたが、伝蔵の異例の出世は譜代の重臣たちの妬みを買った。吉徳の死後、伝蔵は蟄居を命ぜられて、吉徳の側室との不義密通の疑いで自害した。【出典

■ 大津皇子(おおつのみこ): 663−686年。天武天皇の皇子。母は天智天皇の娘で、後の持統天皇の姉。文武に秀でて、人望が厚かった。天武天皇の死後、密告で謀反の疑いをかけられて、自害した。【出典

■ 大友皇子(おおとものみこ): 648ー672年。天智天皇の皇子。太政大臣になって、大海人皇子(おおあまのおうじ・天武天皇)と対立した。天智天皇・大友皇子を中心とした朝廷は近江朝廷と呼ばれた。壬申の乱で敗れて自害した。【出典

■ 大伴家持(おおとものやかもち): 718?ー785年。公家、歌人。中納言。「万葉集」に最多の歌を残し、編者の一人と言われる。死後、藤原種継の暗殺事件に関わったとされ、除名された。【出典

■ 大村純忠(おおむらすみただ): 1533−1587年。キリシタン大名。龍造寺氏と対立する中で長崎港を開港し、町と財政の活性化に成功。【出典

■ 岡部宣勝(おかべのぶかつ): 1597−1668年。大坂の陣で功をなし、大垣藩主などを経て和泉国岸和田藩の初代藩主になった。前領主による悪政で領民が反発したのを、武力を行使せずに沈静化させ、善政に努めた名君という。【出典

■ 小川祐忠(おがわすけただ): ?−1601年。近江国の出。浅井氏に仕えたのちに、織田信長に降伏した。その後、羽柴秀吉に仕え、小田原攻め、文禄の役などの功で伊予国で7万石を領した。関ヶ原の合戦では大谷吉継に属したが、小早川秀秋に呼応して東軍に加担したが、不鮮明だったとして改易になった。【出典

■ 刑部親王(おさかべしんのう): ?ー705年。天武天皇の皇子。天武天皇の命によって700年に、藤原不比等らと律令改修事業を指揮した。翌年、大宝律令が完成した。【出典
# 刑部親王: 忍壁皇子(おさかべのみこ)は、飛鳥時代の皇族である。天武天皇の皇子で母は宍戸臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘。天武天皇元年(672年)の壬申の乱で父天武天皇に従い吉野から東国に赴く。

■ 小野妹子(おののいもこ): 生没年不詳。近江国豪族の出。国書を携えて隋に派遣された(遣隋使)。【出典

■ 小野篁(おののたかむら): 802ー852年。公家、学者、歌人。小野妹子の子孫で漢詩和歌に秀でた。「令義解」の編纂に加わった。遣唐副使になったが、大使の藤原常嗣と争い、乗船を拒否した。隠岐国に流されたがのちに許されて参議になった。【出典


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