「た」行の人々
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 大道寺政繁(だいどうじまさしげ): 1533−1590年。北条家の家臣で、河越城主。河越衆を率いて合戦に参加して活躍した。豊臣秀吉小田原攻めでは籠城の末に降伏した。豊臣方に加わって八王子城攻めなどに参加したが、秀吉に命じられて切腹した。【出典

■ 大宝寺義氏(だいほうじよしうじ): 1551−1583年。出羽国荘内の武将。最上義光の侵攻によって、最上氏と対立した。織田信長と通じて対抗策を練ったが、1583年に家臣の裏切りで討たれた。【出典

■ 高木兼寛(たかぎかねひろ): 宮崎県宮崎市の出身。海軍の軍医で、脚気の予防に尽力した。中でも、麦御飯(白米よりも麦御飯はタンパク質が多い)、そして海軍カレー。海軍省が食事改革を行った結果、脚気の罹患率は1883年の23.1%から2年後には1%未満になった。カレーはイギリス軍の軍隊食で、これを取り入れた。

■ 高島秋帆(たかしましゅうはん): 1798−1866。長崎の出島出身のオランダ人からオランダ語や砲術を学んだ。私費で設備を整え、高島流の砲術を確立した。江川英龍に砲術を伝授。幕府の招きで砲術の演習を行い、のちに幕府の講武所で砲術師範になった。【出典

■ 高遠頼継(たかとうよりつぐ): ?ー1552年。諏訪家の一族で、高遠城主。武田信玄が諏訪家との同盟を破棄して侵攻した際に、信玄と結んで諏訪頼重を降したが、諏訪家の惣領にはなれなかった。【出典

■ 高野長英(たかのちょうえい): 1804−1850年。蘭学者。長崎でシーボルトに学び、江戸で医者を開業。渡辺崋山らと政策などを語ったが、戊戌夢物語で幕府の鎖国政策を批判したため、収監され、脱獄したが捕縛されて死亡した。【出典

■ 高向玄理(たかむこのくろまろ): ?ー654年。渡来人の子孫。遣隋使として小野妹子に従った。大化の改新で国博士になって、政府の最高顧問になった。654年に遣唐使として唐に渡ったが、日本に戻ることなく長安で死去した。【出典

■ 高望王(たかもちおう): 生没年不詳。桓武天皇の曽孫。平の姓を賜って上総介になって下向して土着した。子孫は関東各地に広がった。千葉氏上総氏三浦氏土肥氏秩父氏大庭氏梶原氏長尾氏が坂東八平氏と言われた。【出典

■ 高山右近(たかやまうこん): 1552−1615年。キリシタン大名。摂津国高槻城主。豊臣秀吉のもとで数々の戦に参戦。1587年の伴天連追放令によって、領地を没収されたが、加賀国前田家に保護された。1614年にマニラに追放されて死亡した。【出典

■ 竹崎季長(たけざきすえなが): 1246−?。肥後国御家人。二度の元寇において先駆けの功を成した。自ら鎌倉に赴いて戦功を直訴して、地頭職を得た。武勲を子孫に伝えて、祈願した甲佐神社に報恩するため、絵巻物の蒙古襲来絵詞を描かせて奉納した。【出典

■ 竹中重治(たけなかしげはる): 1544ー1579年。通称を「竹中半兵衛」という。戦国時代を代表する軍師の一人。美濃国斎藤龍興に仕えていたが、不遇であったため、わずかな手勢で龍興の稲葉山城を奪ったという。のちに、織田信長に仕え、豊臣秀吉の参謀として活躍したが、播磨国三木城攻めに病をおして参陣して、陣中で病没した。【出典
・ 竹中半兵衛: 九枚笹紋。美濃国の斎藤家から豊臣秀吉に仕えた。【武将と家紋 インデックス編集部】

■ 竹中重義(たけなかしげよし): 豊後国府内藩主。父の死後、豊後国の府内藩2万石を継いだ。長崎奉行となってからは、キリシタンを弾圧したうえ、密貿易を豪商の平野屋に実行させ利益をむさぼった。やがて、幕府に切腹を命じられ、竹中家は断絶した。【出典

■ 武野紹鴎(たけのじょうおう): 1502−1555年。堺の豪商で茶禅一味を揚げた茶人。南宗寺に参禅。珠光のわび茶をさらに簡素化し、同時に当時流行していた唐様趣味に、日本の古典学を取り入れて和様へと転化させていった。【出典
※ 鴎は「?(環境依存文字)」

■ 立花道雪(たちばなどうせつ): 1513−1585年。大友氏を支え、落雷で半身不随になって、戦場では輿に乗って采配を振るった。【出典

■ 橘奈良麻呂(たちばなのならまろ): 721?ー757?年。橘諸兄の子。藤原仲麻呂に不満を持つ者たちと謀反を企てたが、密告されて発覚した。関与した道祖王(ふなどおう)らは、皆逮捕されて、奈良麻呂は獄死した。【出典

■ 橘逸勢(たちばなのはやなり): ?ー842年。書家で官人。空海たちとともに遣唐使になった。伴健岑(とものこわみね)承和の変を企てたとして罪に問われ、無罪を訴えたものの伊豆国に配流され、そこで亡くなった。【出典

■ 橘諸兄(たちばなのもろえ): 684−757年。光明皇后の異父兄。藤原四兄弟の死去後に、右大臣、左大臣を歴任して、聖武天皇を補佐した。玄掘吉備真備らを顧問として政権を握ったが、孝謙天皇になると勢力が弱まって引退した。【出典

■ 種子島時尭(たねがしまときたか): 1528−1579年。島津氏の家臣。1543年に、種子島にポルトガルの商船が漂着した際に、商人から二挺の鉄砲を2000両の大金で購入した。その後、鉄砲製造に成功した。【出典

■ 田村清顕(たむらきよあき): ?ー1586年。陸奥国田村郡(福島県)の戦国大名。三春城に拠った。娘の愛姫(めごひめ)を伊達政宗に嫁がせて一族を安定させた。【出典

■ 千葉胤富(ちばたねとみ): 1527−1579年。千葉常胤の子孫。里見氏に臼井城を奪われたが、北条氏と結んで翌年の1562年に臼井城を奪還した。【出典

■ 千葉常胤(ちばつねたね): 1118ー1201年。下総国の有力在庁官人保元の乱では源義朝のもとで戦った。房総に逃れてきた源頼朝を上総広常とともに助けて源氏軍に属し、富士川の合戦で戦功をなした。【出典

■ 茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう): 1545−1596年。茶屋清延。初代の四郎次郎。早くから徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦いで功を成した。本能寺の変の際には早馬を用いて、堺に滞在していた家康に情報を伝えた。家康の伊賀越えを助け、その恩から呉服師として御用商人になった。【出典

■ 長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか): 1565ー1587年。長宗我部元親の嫡男。父の元親が羽柴秀吉に降伏後、22歳で秀吉の九州攻めに父とともに参陣し、戸次川の合戦では秀吉の軍監の仙石秀久のもとで戦ったが討ち死にした。【出典

■ 長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか): 四国の長宗我部元親の四男。豊臣秀吉小田原攻めや朝鮮出兵で活躍。関ヶ原の合戦では西軍に属したが、不戦して帰国。大坂の陣に参戦して、とくに夏の陣で藤堂高虎隊との激戦で活躍したが、井伊直孝との戦いで敗走して処刑された。【出典

■ 津田宗及(つだそうきゅう): ?ー1591年。堺の商人で、茶人。天下三宗匠と称されたひとり。堺の豪商の天王寺屋を継いで、織田信長に重用された。【出典

■ 寺沢広高(てらさわひろたか): 1563−1633年。父の寺沢広政と共に、豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵の調停役や名護屋城の築城などの功で長崎奉行になった。秀吉の死後は徳川家康に接近。関ヶ原の合戦では東軍に属し、唐津藩12万石を領した。土豪たちを弾圧したことが、後の島原の乱につながったという。家督を継いだ、次男の堅高が、失政をとがめられて減封、自害して寺沢家は断絶した。【出典

■ 道鏡(どうきょう): ?ー772年。法相宗の僧。孝謙上皇称徳天皇)の病を癒やしたことから寵愛を受けて、太政大臣禅師から法王となって、国分寺造営を進めるなど仏教政治を行った。天皇の位を道鏡に譲れとの神託によって、天皇になろうとしたが阻止された。【出典

■ 富樫政親(とがしまさちか): 1455−1488年。本願寺の援助を得て、弟の幸千代(こうちよ)を討って、加賀国守護大名になった。のちに教団の力を恐れて弾圧に転じた。20万人規模の一向一揆が発生し、高尾(たこ)城を囲まれて自害した。以後、1580年まで加賀国は一向宗(浄土真宗)の信者が支配した。【出典

■ 戸沢盛安(とざわもりやす): 1566−1590年。出羽国角館の武将。1586年に阿気野(あけの)の戦いで小野寺氏を破って上浦郡を掌握するなど、角館地方で勢力を拡大。豊臣秀吉に従って小田原攻めに参陣したが、陣中で病死した。【出典

■ 舎人親王(とねりしんのう): 676−735年。天武天皇の皇子。「日本書紀」の編纂で中心的な役割を果たした。720年に完成した。【出典

■ 伴健岑(とものこわみね): 大伴氏の一族。842年に、橘逸勢と共に皇太子の恒貞親王を奉じて謀反を企てた。これを承和の変といい、隠岐国に配流された。密告者は阿保親王で、藤原良房の陰謀と言われる。【出典

■ 伴善男(とものよしお): 811−868年。公家。866年、応天門の変を起こして、政敵の左大臣源信を失脚させようとしたが、失敗して応天門に放火した罪で伊豆国に流された。【出典

■ 鳥居元忠(とりいもとただ): 1539−1600年。徳川家康今川氏の人質時代から仕え、生涯家康に忠義を尽くした。関ヶ原の合戦の前哨戦の伏見城の戦いで討ち死した。【出典

■ 曇徴(どんちょう): 高句麗の僧。610年に来日した。五経に詳しく、絵の具、紙、墨の製法を伝えたという。【出典


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

統計表示