公家 | |
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■ 公家(くげ): 「公家」の名字
# 御所の清涼殿に昇殿する資格を世襲した家を堂上(とうしょう)家といった。摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家。【日本史再検証 名家の「その後」 監修:森岡浩 別冊宝島】
# 「公家(こうけ)」はもともとは天皇や朝廷や国家を指す。武士が勢力を増して「武家」と称したことで、それに対して「公家」は朝廷に仕える人たちの総称となった。さらに、時代が下がると、公家間に家格が生まれ、天皇の住む御所に昇れる資格を持つ摂関家、精華家、大臣家、羽林家、名家、半家が「公家(くげ)」と呼ばれるようになった。公家の家紋は、その多くは衣装を飾った有職(ゆうそく)の文様が元になっているためにデザインが華やかで、公家の美意識が感じられる。【出典】
・ 貴族社会では、「天皇(大王)を補佐するに足る名門の出身者だけが、国政を担当する資格をもつ」という発想が受け継がれてきた。したがって、「出自を問わずに、有能な者を抜擢する」という発想がなかった。「氏上(うじのかみ)」と呼ばれる、大和や河内の大豪族の指導者が一人ずつ集まり、この20〜30人の話し合いで朝廷の政策を決定した。【日本人なら知っておきたい 名家・名門 武光誠 河出書房】
・ 九条家: 藤原忠通(ただみち)の三男の兼実(かねざね)が京の九条殿に住んで、建久2年(1191年)に関白となり「九条」家を興した。
・ 近衛家: 藤原忠通(ただみち)の嫡男の基実(もとざね)が自分の住む近衛殿に因んで「近衛」家を興した。
・ 二条家: 九条家は兼実(かねざね)の孫の道家のころに大いに栄え、道家の子の良実(よしざね)が父より東二条院を譲り受け、「二条」家を興した。
・ 一条家: 九条道家の三男の実経(さねつね)が、父の造営した一条殿を譲り受け「一条」家を興した。
・ 鷹司家: 近衛家実の子の兼平(かねひら)が鷹司室町に住んで「鷹司」家を興した。
# 摂家の家紋
※ 諸家の中で、大臣や近衛大将という要職にすすみ、最高位の太政大臣まで昇進できた公家を精華家といった。
・ 三条家: 太政大臣の藤原公季(きんすえ)の後裔で、公季が「閑院」と称したので「閑院家」と言われた。閑院家の嫡流で、公季の四代後裔の公実(きんざね)の長男の実行(さねゆき)が京の三条に北に住んで三条家を興した。三条家からは、「姉小路」「阿野」「正親町(おうぎまち)三条」「三条西」「武者小路」などが分かれた。
・ 西園寺家: 太政大臣の藤原公季(きんすえ)の後裔で、公季が「閑院」と称したので「閑院家」と言われた。公季の四代後裔の公実(きんざね)の三男の通季(みちすえ)を祖とし、当初は「大宮」を称した。後に通季の曾孫の公経(きんつね)が京の北山に西園寺を建立し「西園寺」家を興した。西園寺からでた公家には「大宮」「正親町」「清水谷」「洞院(とういん)」「室町」などがある。
・ 徳大寺家: 太政大臣の藤原公季(きんすえ)の後裔で、公季が「閑院」と称したので「閑院家」と言われた。公実の子の実能(さねよし)が、京の衣笠岡に徳大寺を建立し「徳大寺殿」と呼ばれたのに始まる。
・ 花山院家:
・ 大炊御門家: 花山院家の分家。
・ 久我家:
・ 広幡家:
・ 朝廷で、五摂家につぐ家格とされた。近衛大将や太政大臣になれた。【日本人なら知っておきたい 名家・名門 武光誠 河出書房】
■ 清華家の家紋
・ 徳大寺家: 木瓜花菱浮線綾
・ 花山院家: 杜若菱
・ 三条家: 唐菱花
【日本人なら知っておきたい 家紋と名家のいわれ 大野敏明 実業之日本社】
■ 公家は全部で160家以上あると言われる。幕末で138家。
■ 公家
・ 大臣家(だいじんけ): 大臣になることができた。公家の家格の一つで、摂家、精華家に続く。
・ 羽林家(うりんけ): 太政官の次官である大納言や中納言になることができた。鎌倉時代以降の公家の家格の一つで、摂家、精華家、大臣家に続く。
・ 名家(めいか): 一般的な役人になれた。
・ 諸大夫家(しょだいぶけ): 摂政などの家格の事務を取り扱った。
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