「姉小路」の名字の由来 | |
【参考資料・文献】 | 【利用上の注意】 |
名字の由来のTop | 地名の由来のTop |
名字と地名のMenu | 「あ」行の名字 |
スポンサーリンク |
スポンサーリンク |
■ 姉小路(あねこうじ)
【2023/05/19:改編】
# 公家の名字。
# 代表家紋
# 藤原北家の閑院流の三条家の出。また藤原北家の藤原師尹の後裔で建武の中興のころに飛騨国の国司になった姉小路家は飛騨国の豪族となった。【出典】
# 公家に姉小路家があり、分家には飛騨国の戦国大名となった一族がある。
# 公家の姉小路氏: 藤原北家の出で、三条実房の子の公宣が京都の姉小路に住んで姉小路氏を称した。南北朝時代にいったん断絶したが、1613年に阿野実顕の三男の公景が再興した。家格は羽林家。江戸時代の家禄は200石。明治時代には伯爵。【出典】
# 飛騨国の姉小路家: 飛騨国の戦国大名も一族。姉小路家綱が建武の新政の際に飛騨国の国司となって下向。その後、土着して大名の姉小路氏となった。南北朝時代には南朝に属し、室町時代には小島家・小鷹利家・古河家の三家に分裂して争った。戦国時代に、三木良頼が古河家の名跡を継いで姉小路嗣頼を称し、子の自綱が飛騨国の大半を支配下に置いたが、1585年に豊臣秀吉の命をうけた金森長近に敗れて滅亡した。【出典】
# 飛騨国の戦国大名。藤原北家の小一条流の師尹の子の済時が姉小路に住んで姉小路家を称したというが、系図には異同があり不詳。建武の新政の際には、家綱が飛騨国の国司になって下向し、そのまま土着して大名の姉小路家になった。室町時代には、小島城(岐阜県飛騨市古川町沼町)に拠る宗家の小島家の他、小鷹利城(岐阜県飛騨市古川町信包)に拠る小鷹利(向)家、蛤城(飛騨市古川町高野)に拠る、古川家の三家に分裂して争った。文明年間には小島家の勝言が小鷹利家と古川家を降してほぼ飛騨国を制圧したが、文明13年(1481年)頃に勝言が死去すると、再び三家が復活した。その後、古川家を継いだ基綱が木曽氏を討って勢力を拡大して、小島家に代わって姉小路三家を制した。しかし、子の済継は飛騨国に下向した翌年の永正15年(1518年)に急死したために、守護の京極氏の家臣だった三木直綱が台頭、土岐氏と結んで、飛騨南部を制して戦国大名になった。三木直頼の子の良頼は永禄3年(1560年)に古川家の名跡を継いで、永禄5年には従三位にのぼって関白の近衛前嗣から「嗣」の字を賜って姉小路嗣頼を称し、国司の姉小路家を簒奪した。子の自綱(頼綱)は本拠を松倉城(高山市)に移すと、天正10年(1582年)に八日町の戦いで飛騨北部を制していた江馬輝盛を降した。翌11年には実弟の鍋山顕を殺害すると、以後牛丸氏、広瀬氏などを次々と滅ぼして飛騨国の大半を支配下においた。天正13年に豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨国に侵攻し、広瀬氏、牛丸氏ら遺児もこれに加わり、頼綱は敗れて滅亡した。この際に、一族の多くは自害したが、頼綱は助命されて京に転じ、近衛前久に庇護されている。また、自綱の末子の近綱は郡上八幡城主の遠藤慶隆の人質になっていたため難を逃れて、子孫は旗本になって三木氏に復した。【出典】
# 姉小路家
# 姉小路(あねこうじ): 京都府京都市
・ 平安期から見える通り名。平安京を東西に走る。道幅は4丈。北には朱雀大路を中心として東西に左京職・右京職が置かれた。姉小路北、三条坊門南、壬生大路西、坊城小路東には和気氏の子弟教育機関弘文院、その南には藤原冬嗣創設の勧学院、さらにその西に隣接して藤原行平が営んだ奨学院があり、付近は教育街の様相を呈していた。【出典】
# 「姉」のつく名字。
# 「小」のつく名字。
# 「道・路」のつく名字。
都道府県毎の名字の特徴 | 名字の様々な区分 |
難読名字 | 難読地名・珍地名 |
地名と災害 | 名字の博物館 |
名字と地名・都道府県編 | 民俗学の広場内の検索 |
■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。【詳細】