「土岐」の名字の由来
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■ 土岐(とき、どき、とぎ)

【2021/02/27:改編】

# 1343位

# 清和源氏などにみられる。

# 代表家紋

# 清和源氏の本家筋の摂津源氏の流れをくむ。

# 青森県:204位、山形県:419位、愛媛県:426位、香川県:572位、岐阜県:578位など。

※ 山形県でも結構多くみられるようだが、目にしたことはないなぁ。山形県鶴岡市に「どき」読みの「土岐」姓がみられる。あら「とぎ」読みもおられました。

# 主なルーツ地

・ 美濃国土岐郡土岐郷(岐阜県瑞浪市土岐町)をルーツとし、清和源氏で源光国の子の光信が土岐氏を名乗ったのが祖。土岐頼芸の家紋

# 土岐氏: 斎藤道三によって土岐氏が滅ぼされた時、土岐一族は各地に離散した。その中の土岐定政は母方の実家の三河国額田郡の菅沼家に身を寄せ、徳川家康に仕えた。家康の関東への転封の際は下総国守谷1万石。その後、土岐家は高槻2万石、下総田中3万5千石を経て、六代目の土岐頼稔が寛保2年に老中になったのにあわせて上野国沼田藩主となった。

# 土岐氏から派生した名字には、「明智」「金森」「蜂屋」「舟木」「浅野」などがある。

# 土岐氏の庶流: 多治見氏、土岐明智氏、あえば氏、浅野氏、池尻氏、池田氏、石谷氏、稲木氏、植村氏、揖斐氏、今峰氏、鷹山氏、妻木氏、外山氏、長山氏、蜂屋氏、原氏など100以上。【ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫】

# 群馬県の土岐家: 沼田藩主。戦国大名の土岐氏の一族。土岐郡明智に住んで明智氏を称していた。本能寺の変後、明智の名字をはばかって一時菅沼を名乗り、その後土岐に復し徳川家に仕えた。

・ 上野国沼田藩(3万5千石)の土岐家。沼田はもともとは真田家の領地。後に美濃の土岐氏の一族が来た。  

・ 群馬県の土岐家: 沼田藩主。土岐氏の一族で、美濃国土岐郡明智に住んで明智氏を称していたが、天文年間に土岐頼芸と斎藤道三との合戦で明智定明が討ち死にしたため、幼少の定政が母親の親戚を頼って三河国に逃れ、母方の叔父の菅沼定仙のもとで成長した。定政は明智光秀の同族であることをはばかって、一時菅沼定政と名乗ったが、土岐氏に復姓し徳川家康に仕えた。家康の関東入国後、下総国相馬郡で1万石。その後、摂津国高槻2万石、出羽国上山2万5千石、駿河国田中3万5千石を経て上野国沼田3万5千石へ。明治時代には子爵。【出典

・ 沼田藩主。美濃の土岐氏の一族で土岐郡明智に住んで明智氏を称していたが、定明が討ち死にしたため、幼少の定政は母方の親類を頼って三河国に逃れ、母方の叔父の菅沼定仙の下で成長した。明智光秀と同族であることをはばかって一時菅沼氏を名乗った後、土岐氏に復して徳川家康に仕えたのが祖。1590年の関東入国の後に下総国相馬郡に1万石を賜り、守谷に住む。子の定義は摂津高槻(大阪府高槻市)で2万石に転じ、子孫は出羽上山2万5000石、駿河田中3万5000石を経て、五代頼稔の1742年に上野沼田3万5000石に入封した。明治時代には子爵。【出典

# 千葉県の土岐家: 上総国夷隅郡万喜(千葉県鴨川市)の土岐氏応永年間に土岐時政が摂津国冨山から移り住んだが天正18年(1590年)に里見氏に滅ぼされた。

# 岐阜県の土岐家: 美濃国土岐郷(岐阜県瑞浪市)をルーツとする。清和源氏の出で、土岐光信が祖。鎌倉時代には御家人となった。【出典】  

・ 美濃国の大名。清和源氏の出で、源光国の子の光信の頃から美濃国土岐郡土岐郷(岐阜県瑞浪市土岐町)を領して土岐氏を称したというが、実際は土岐に土着したのは光信の孫の光衝ともいう。光衡の長男の光行・光時はいずれも浅野氏を称し、承久の乱では光行は幕府方、光時は宮方に属した。光時の跡は五男の光定が惣領となって、再び土岐氏を称し、執権北条貞時の女婿となった。しかし、足利尊氏に従って倒幕に参加、建武政権では美濃国の守護となって、以後守護を独占した。美濃国内に広がった一族の数は多く、百家を超えるといわれる。室町時代、頼康は美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護を務めたが、1387年の頼康の死去に際して、その遺領の相続に将軍義満が介入、惣領康行と弟の満貞が合戦となったところで幕府の追討をうけて没落、美濃の守護は庶流の池田頼忠(頼世)が継いだ。以後、頼忠が土岐氏の嫡流となって土岐氏を称し、孫の持益の代には守護代として起用した斎藤氏が台頭した。応仁の乱では成頼は西軍に参加、守護代の斎藤妙椿が活躍。子の政房は守護代の斎藤利国と結んで実弟の元親を討ち、父の成頼を廃して守護となった。その後も1517年に頼武が守護代の斎藤利良と結んで祖父の政房を隠居させたが、弟の頼芸との戦いに敗れて越前国に亡命。以後内乱が続き、頼純が守護代の斎藤道三と結んで守護の座に着いた。しかし、1年後の1527年には頼純が急死(毒殺説もある)、頼芸が守護についた。このすきを縫って台頭した斎藤道三によって1552年に頼芸は美濃国を奪われ、事実上土岐氏は滅亡した。【出典

【戦国大名家辞典 森岡浩 東京堂出版】より

# 岐阜県の土岐家: 美濃国の戦国大名。美濃国土岐郡土岐郷(岐阜県瑞浪市土岐町)をルーツとし、清和源氏の出。源光国の子の光信が土岐氏を称したというが諸説あるそうだ。鎌倉時代には御家人となり、後に美濃の守護となった。南北朝時代には北朝に属した。天文21年(1552年)斎藤道三によって滅ぼされた。一族は、後に豊臣秀吉から徳川家康に仕え江戸時代には高家に列せられた。

# 岐阜県の土岐家: 美濃の土岐氏の一族で美濃国土岐郡明智に住んで明智氏を称していたが、天文年間斎藤道三から攻められ三河国に逃れた。後に、明智光秀の同族であることをはばかって菅沼を称したが、後に復姓し徳川家康に仕えた。家康が関東入国の際には下総国相馬郡で1万石。その後摂津国高槻2万石から、上野国沼田3万5千石。

# 千葉県の土岐家: 上総国夷隅郡の国人応永年間に土岐時政が摂津国富山から移り住んだ。

# 茨城県の土岐家: 常陸国信太郡の国人で美濃の土岐氏と同族。弘安年間に土岐師親が信太荘の地頭となって移り住んだ。

# 土岐家

# 沼田藩

# 「トキ・ツキ」の語源

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