斎藤道三
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■ 斎藤道三(さいとうどうさん)出典

・ 「斎藤」の名字

・ 1494?ー1556年。享年不詳(戦死)。

・ 出身地: 山城国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 子:斎藤義龍

・ 家紋: 二頭立波紋(にとうたつなみもん)

・ 父は、京都の妙覚寺の僧の西村新左衛門尉で、道三は一介の油の行商人であった。父は1525年に、叛乱で守護代の斎藤利良を追放して、新しい守護として土岐頼芸(よりのり)を擁立した。しかし、道三は父の死後、守護代の斎藤家を乗っ取って、1552年には土岐頼芸を尾張国へ追放して、美濃国一国を乗っ取った。道三は、隣国の尾張国の織田信秀と和睦し、娘の濃姫(帰蝶)織田信長に嫁がせた。道三は1554年に、追放した元守護の土岐頼芸の子とされる斎藤義龍に家督を譲った。古くからの土岐氏の家臣の懐柔のためだったという。しかし、義龍との関係はうまくいかず、義龍から攻撃され長良川の合戦で討ち死にした。

■ 斎藤龍興(さいとうたつおき)

# 1548ー1573年。斎藤義龍の子。父の死後に、13歳で美濃国の稲葉山城主になったが、領内をまとめきれず、織田家と内通する重臣が出た。家督相続後3年で美濃国は織田家に奪われ、龍興は近江国浅井氏越前国朝倉氏を頼った。一向一揆などと連携して信長包囲網を固めたが、織田軍との戦いで討ち死にした。【出典

■ 斎藤義龍(さいとうよしたつ)

・ 1527−1561。斎藤道三の子。実父は美濃国守護の土岐頼芸(よりのり)。1556年に道三を長良川の合戦で討ち、美濃国稲葉山城主になった。【出典


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