織田家の人々
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■ 織田家の人々

・ 「織田」の名字の由来

# 信長の嫡男の信忠は本能寺の変の際に二条城で討ち死に。信忠の子の三法師丸は、後に織田秀信と名のり、権中納言で岐阜城主(13万3千石)。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組し、高野山に送られた。

# 織田信雄の嫡男の織田秀雄は、秀吉から越前大野5万石をもらったが、関ヶ原の合戦後に改易、断絶。織田信雄は大和国松山5万石。1616年に四男の信良に上野国小幡2万石を分知し、大和国松山は五男の高長が継いだ。高長の孫の信武は元禄年間に、不祥事により減封され丹波国柏原2万石。信良の家系は、後に出羽国高畠から出羽国天童に転封。

# 織田信長の三男の信孝は信雄との争いで自刃。
※ ちなみに、信孝は、尾張国知多半島内海の大御堂寺で切腹させられたが、ここは源義朝が暗殺された場所。

# 秀勝は秀吉の養子となり、丹波国亀山城主となったが、1585年に死亡。

# 勝長は、本能寺の変の際に兄の信忠と一緒に二条城で討ち死に。

# 信長の側室のお鍋の方の子の信高の子孫は、江戸時代には旗本

# 信吉は関ヶ原の戦いで西軍に組して失脚。

# 信貞の子孫は旗本尾張藩士

# 信好(のぶよし)は消息不明。

# 長次は関ヶ原の戦いで西軍に組して討ち死に。

# 織田信秀の四男の織田信包は伊勢国豪族の長野氏を嗣いで安濃津城主となり、その後丹波国柏原に移ったが、孫の信雄の死後に無嗣断絶。信包の長男である織田信重は伊勢林で1万石を領したが、後に除封。

# 織田信秀の十一男の長益(有楽斎)は関ヶ原の戦い後には摂津国味舌(ました)3万石。後に、五男の織田尚長が柳本1万石、四男の織田長政が戒重(後に芝村)1万石。長男の織田長孝は美濃国野村1万石だったが無嗣断絶。

【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 織田家の家紋


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