「織田」の名字の由来
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■ 織田(おだ、おりた)

【2021/02/26:改編】

# 592位

# 代表家紋

# 織田姓は全国にみられますが、「おりた」読みは兵庫県を中心に西日本にみられるようです。

# 「織田系図」によると、織田氏は壇ノ浦で入水した平資盛(すけもり)の妻が遺児の親真を抱いて近江国津田荘に逃れ、親真が成長したのちに越前国敦賀郡織田荘の織田剣神社の神官の養子となって織田氏を称したのが祖。桓武平氏流としてシンボルの揚羽蝶紋を使う。しかし、出自は多説あり、現在では越前国の織田荘発祥で、忌部宿禰後裔というのが有力説(太田亮)である。その後の織田氏は越前国・尾張国の守護の斯波氏に取り立てられ、尾張国の守護代として尾張国に移った。織田信長は本能寺で非業の死をとげたが、二男の信雄の系統は出羽天童藩、五男の信友の系統は丹波柏原藩、弟の長益(有楽斎)の系統は大和国芝村藩および大和国柳本藩と、それぞれ四大名を出した。代表家紋は「揚羽蝶」「織田木瓜」。【出典】【家紋のデータ

# 山形県の織田家: 天童藩主。織田信長の次男の信雄(のぶかつ)の子孫。江戸時代上野国小幡藩主(群馬県甘楽町)、出羽国高畠藩主(山形県高畠町)を経て天童藩主となった。【出典

・ 天童藩主。織田信長の末裔。信雄の四男の信良は1616年に2万石を分知され、翌年に上野国の小幡藩に入封した。1767年に出羽国高畠(山形県東置賜郡高畠町)を経て、1830年に出羽国天童(山形県天童市)に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 兵庫県の織田家: 丹波柏原藩(兵庫県丹波市)藩主。織田信長の二男の信雄の子孫。信雄は1590年の小田原攻めの後に、秀吉から三河・遠江・駿河への移封を命じられたが、これを拒んで下野烏山に配流された。後に徳川家康の斡旋で許されたものの、関ヶ原の合戦には参加しなかった。そして、1615年に大和国・上野国で5万石を与えられ、大和松山藩5万石を立藩。五男の高長(信友)が大和の3万石を継いだ。四代信武は家老二人を惨殺、さらに発狂して1695年に自害したため、丹波柏原藩2万石へ減転となった。明治時代には子爵。【出典

# 奈良県の織田家: 芝村藩主(3万石)。織田信長の弟の織田長益(有楽斎)を祖とする。【出典】 

・ 芝村藩(奈良県桜井市)主。織田信長の弟の長益(有楽斎)の末裔。長益の四男の長政は、1615年に大和国と摂津国で1万石を分知され大名となり、大和国式上郡戒重(かいじゅう、桜井市)に陣屋をおいて戒重藩を立てた。1704年に芝村に陣屋を移して芝村藩となった。明治時代には子爵。【出典

# 奈良県の織田家: 柳本藩(奈良県天理市)主。織田信長の弟の長益(有楽斎)の五男の尚長が1615年に大和国式上・山辺両郡で1万石を分地されて大名となった。寛永年間に式上郡柳本に陣屋をおいて柳本藩となった。明治時代には子爵。【出典

# 織田上総介信長: 言わずと知れた、戦国時代末期の大名ですねぇ。

# 塩野七生は、「男の肖像(文春文庫)」で以下のように述べている。
「織田信長が日本人に与えた最大の贈り物は狂信の徒の皆殺しである。仏教であれなんであれ、日本人では宗教が政治にちょっかいを出すことの方が不自然になった。欧米諸国が現在に至るまでこの問題(政教分離)で、悩まされてきた実情を知れば、われわれのもつ幸運の大きさに、日本人がまず驚嘆するであろう。」
※ 日本に自爆テロリストがいない理由。

# 織田信孝

# 織田家

# 柏原(かいばら)藩 ・ 芝村藩 ・ 天童藩 ・ 柳本藩

# 国衆(国人)

# 「田」の漢字の持つ意味

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