愛知県内の「織田」の名字の詳細
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■ 織田(おだ) 

# 尾張国戦国大名。「織田家譜」などによると、平家が滅亡した際に、平資盛の妻は幼児だった親真を抱いて近江国蒲生郡津田荘(滋賀県近江八幡市)に逃れ、のちにこの親真が越前国敦賀郡織田(福井県丹生郡越前町織田)の剱神社の神官の養子になって織田氏を称したという。現在では忌部氏の一族と言われ、平成23年(2011年)には祖の親真の墓が越前町で発見されている。織田荘の荘官をつとめた織田氏が守護斯波氏被官になって、やがて勢力を蓄えていったものとみられる。そして、斯波義重が尾張国守護を兼ねると、常昌が守護代として尾張国に転じた。その後、岩倉城に拠って丹羽郡・羽栗郡・中島郡・春日井郡の尾張四郡を支配する嫡流の岩倉織田家(伊勢守家)と、清洲城に拠って斯波氏を奉じ、海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡の尾張下四郡を支配した清洲織田家(大和守家)に分かれて対立した。清洲織田家は、永正10年(1513年)に達定が守護の斯波義達と対立して討ち死にし、以後は因幡守家・藤左衛門尉家・弾正忠家(勝幡家)の三庶子家が家老として実権を握った。三家老の内、実権を握ったのが弾正忠家である。信貞は勝幡城(愛知県愛西市勝幡町)に拠って勝幡織田家ともいった。その後、伊勢湾水運の拠点である津島を支配下において経済力を蓄えた。信貞の子の信秀は、天文7年(1538年)に那古野城(名古屋市中区)に転じて勢力を広げた。また、斎藤道三の娘を嫡男の信長の嫁に迎えて斎藤氏と与するなど、主家である清洲織田家を凌ぐ力を有した。天文20年(1551年)に家督を継いだ信長は、清洲城主の織田信友や、弟の信行、異母兄の信広を討って清洲織田家を統一した。その後、永禄元年(1558年)には岩倉城主の信賢も討って、織田家全体を統一した。永禄3年に桶狭間の合戦で今川義元を討って戦国大名になると、足利義昭を奉じて上洛して、畿内を平定して室町幕府を再興した。その後、浅井氏朝倉氏を滅ぼし、将軍の足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させ、さらに武田氏などを滅ぼして全国統一を目指したが、天正10年(1582年)に京の本能寺で明智光秀に討たれた。嫡男の信忠も本能寺の変の際に二条城で自刃し、孫の秀信が跡を継いで、関ヶ原の合戦で西軍に属したため嫡流は滅亡した。【出典

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