明智光秀
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■ 明智光秀(あけちみつひで): 「明智」の名字の由来 

# 明智光秀(あけちみつひで)【出典
・ 1528−1582年。享年不詳(討ち死)。
・ 出身地: 美濃国
・ 肩書き: 武将。
・ 家族: 細川ガラシャ
・ 家紋: 水色桔梗紋
・ 清和源氏土岐氏の一族。若いときには、同じく土岐一族の斎藤道三に仕えたが、その後、越前国朝倉氏に仕えた。光秀はそこで足利義昭に出会った。奈良の興福寺に幽閉されていた義昭は、脱出して朝倉氏を頼って、上洛を目指した。しかし、朝倉氏は上洛に消極的であったため、義昭は織田信長に目を付けた。信長は斎藤道三の娘を娶っており、光秀と信長は縁戚関係にあった。光秀は義昭を信長に介し、また信長に属した。その後、義昭と信長が対立し始めると、光秀は信長の直臣になった。比叡山の焼き討ちで功を成して、5万石を領して坂本城を築いた。さらに、石山本願寺、荒木村重松永久秀を攻め、丹波国を制して丹波一国を賜った。光秀は信長から高く評価されたが、毛利攻めで遠征している羽柴秀吉を支援するために出陣を命じられた際に、西に向かわずに京に入って本能寺で信長を討った。しかし、羽柴秀吉に敗れて、討ち死にした。

# 明智光秀の出自
 岐阜県恵那郡明智町
岐阜県可児市広見・瀬田。かつて、明智荘があった。
 小和田哲男氏は△鮖抻。
理由 〃弾畄缶醒劼榔鷸明智氏の故地で、土岐氏庶流の明智氏とは関係ない。
理由◆〔醒匕秀の重臣たちの出身地が可児市広見という伝承がある。

# 明智光秀は清和源氏土岐氏の一族。当初は明地氏を称し、後に明知、明智と変わった。

# 明智光秀の叔母が斎藤道三に嫁ぎ、間に生まれたのが濃姫。明智城が落城後、美濃を追われた明智光秀は朝倉義景に仕官。知行500貫文。

# 足利義昭が15代将軍となって、信長の建てた二条城に入ったのち、明智光秀は木下秀吉とともに京都奉行となり、400石?

# 明智光秀は、朝倉家一乗谷で、初めて足利義昭の家臣となった。若狭、越前は京都からの没落者が集う、一大拠点だった。【ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫】

# 明智光秀が、京都庶政の恩賞として、元亀元年(1570年)4月10日に足利義昭の名で、山城国久世荘の一職支配を認められている。【ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫】

# 延暦寺焼き討ちの後に明智光秀には、近江国の滋賀郡全体が与えられた。【ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫】

# 明智光秀の妹って、織田信長の側室だったかな。【ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫】

# 「惟任退治記」より【ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫】
・ 著者が秀吉の配下であることに注意。
・ 羽柴秀長はもとは長秀だった。
・ 備中高松城について、「三方にふけを抱き、そのうえ堀ひろく・・」とあり、この「ふけ」は「深田、湿地」を表している。【秀吉の文書より】
・ 秋田城介平朝臣信忠(織田信忠)
・ 滝川左近将監一益

【参考資料】

・ 明智光秀 つくられた「謀反人」 小和田哲男 PHP新書
・ ここまでわかった! 明智光秀の謎 歴史読本 新人物文庫


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