「ま」行の人々
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■ 前田茂勝(まえだしげかつ): 亀山藩主。父の遺領の丹波国の亀山藩5万石を継いだが、八上への移封となった。冷遇されたと思った茂勝は京や伏見で憂さ晴らしをした。さらに家老を手討ちにしたうえ、江戸への岐路で小姓を刺殺した結果、隠岐国に配流された。【出典

■ 前野長康(まえのながやす): ?−1595年。豊臣秀吉の最古参の家臣の一人。四国征伐などの功を重ねて、但馬国出石城主になった。後に、豊臣秀次に仕えて、秀次の謀反に連座して自害を命じられた。【出典

■ 前野良沢(まえのりょうたく): 1723−1803年。豊前国の中津藩の医師の前野家の養子となり、医師になった。43歳のときに青木昆陽に蘭学を学び、長崎留学中に西洋の解剖書の「ターヘル・アナトミア」を入手した。解体新書を編纂した。【出典

■ 前原一誠(まえばらいっせい): 1834−1876年。前原一誠は、松下村塾で学んだ後に、倒幕運動で活躍した。戊辰戦争でも、長岡城の攻略や会津戦争で功を成した。新政府では参議をつとめ、暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔を務めた。しかし、徴兵制には反対し、山県有朋に政界を追われた。不平士族を集めて萩の乱を起こしたが、鎮圧されて処刑された。【出典

■ 牧野忠訓(まきのただくに): 1844−1875年。越後国の長岡藩主の養嗣子から、24歳で藩主になった。家老の河井継之助を信頼して、藩政や軍制などを任せた。大政奉還後には、公武調和の建白書を新政府に提出したが黙殺された。新政府軍を相手に善戦したが降伏した。【出典

■ 牧野忠辰(まきのただとき): 1665−1722年。越後国長岡藩の三代藩主。48年間、藩主をつとめた。「諸士法制(しょしほうせい)」を改正して、綱紀を粛正した。倹約に努め、消防制度を整え、民政に力をそそぐとともに殖産振興に努めた。【出典

■ 松浦鎮信(まつうらしげのぶ): 1549−1614年。松浦隆信の子。父とともに豊臣秀吉に従って、のちには徳川家康のもとで平戸藩の初代藩主になった。オランダやイギリスの商館を造って、貿易に力を入れた。【出典

■ 松浦隆信(まつうらたかのぶ): 1529−1599年。肥前国戦国大名有馬氏龍造寺氏らと対峙し、1550年に南蛮貿易を開始した。財を得て勢力を拡大し、豊臣秀吉の九州平定にも参陣した。【出典

■ 松方正義(まつかたまさよし): 1835−1924年。薩摩藩士。明治維新後、大久保利通の推挙で財務官僚として活躍したが、大隈重信と対立した。大隈の失脚後には、参議兼大蔵卿となり、日本銀行券を発行した。【出典

■ 松田憲秀(まつだのりひで): ?ー1590年。北条家家老。外交面で活躍して、各地の戦いに従軍した。しかし、豊臣秀吉小田原攻めの際に、豊臣方の誘いを受けたために監禁され、北条家の滅亡後には切腹した。【出典

■ 松永久秀(まつながひさひで): 1510?ー1577年。松永弾正ともいう。畿内を支配して、茶道や歌にも長けた教養人だった。上洛した織田信長に降って、家臣となった。その後、離反したが信長に敗れて、名器の「平蜘蛛」という茶釜に爆薬を仕込んで爆死した。【出典

■ 松前慶広(まつまえよしひろ): 1548−1616年。元は戦国大名の蠣崎氏。豊臣秀吉から蝦夷地の支配権を賜って、朝鮮出兵にも参陣した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、1599年には松前氏に改称した。大坂夏の陣(大坂の陣)にも参陣して、松前藩の初代藩主になった。【出典

■ 間宮林蔵(まみやりんぞう): 1775?ー1844年。常陸国の農家の生まれ、幕府の利根川堰工事に加わり、地理と算術の才能を認められ、役人になった。南千島を測量中の伊能忠敬に学んで、協力した。その後、幕命で樺太を探査して、島であることを確認した。晩年は幕府の隠密を務めた。【出典

■ 三浦道寸(みうらどうすん): 三浦義同(よしあつ)。相模国の武将。北条早雲の最大の対抗勢力。早雲の相模国への進出と共に対立を深めて、三浦水軍を率いて戦ったが、1516年に三崎城が落城して討ち死にした。【出典

■ 三浦泰村(みうらやすむら): ?ー1247年。源頼朝に従った有力御家人評定衆になって北条氏に並ぶ力を持ったが、五代執権北条時頼と対立した。安達景盛らの軍勢と戦って、一族とともに自害した。これを宝治合戦という。【出典

■ 三島通庸(みしまみちつね): 1835−1888年。薩摩藩の出。旧酒田県、山形県、福島県、栃木県の県令を歴任。道路・橋梁・公共施設の建設に尽力し、反対勢力を弾圧した。その反発から、福島事件や加波山事件などがおきた。【出典

■ 溝口秀勝(みぞぐちひでかつ): 1548−1610年。大名織田信長から、高浜城を賜った。関ヶ原の合戦では、東軍に属して、新発田藩の初代藩主になった。【出典

■ 南淵請安(みなみぶちのしょうあん): 渡来人の子孫。32年間、隋、唐に学問僧として留学。中大兄皇子と中臣鎌足は請安の塾で学び、蘇我氏の打倒を相談したとされる。【出典

■ 三村元親(みむらもとちか): ?ー1575年。父の三村家親を殺した宇喜多直家と戦ったが大敗した。これを明善寺の合戦という。毛利氏の支援を受けたが、毛利氏が宇喜多氏と与したことで離反した。その後、毛利氏に追われて自害した。【出典

■ 三好長慶(みよしながよし): 1522ー1564年。阿波国の武将。細川氏の重臣をつとめ、13代将軍の足利義輝を追放。細川政権を裏で操り、三好政権を作り上げたが、敵対者によって追い込まれた。【出典

■ 三善康信(みよしやすのぶ): 1140−1221年。公家の出で、法律家。母親が源頼朝の乳母の妹。頼朝の挙兵に助力したことから、1184年に鎌倉に招かれて、初代の問注所執事になった。頼朝の死後は十三人の合議制に列した。【出典

■ 三好義賢(みよしよしかた): 1527−1562年。阿波国守護の細川持隆に仕え、また兄の三好長慶の勢力拡大に従って各地を転戦した。1553年には持隆を殺害して、細川氏を影から繰ったが、久米田の戦いで討ち死にした。【出典

■ 三好吉房(みよしよしふさ): ?−1600年。豊臣秀吉の姉の夫。豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保の実父。秀吉の縁者の一人として、木下の名字を賜って、秀次が三好家の養子になると、三好姓を称した。秀次の失脚に連座して、讃岐国に配流された。【出典

■ 旻(みん): 渡来人の子孫。608年から24年間、学問僧として隋・唐に留学した。大化の改新では国博士になって、行政機関、八省百官を立案した。【出典

■ 武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい): ?ー1189年。源義経の家来。衣川の戦いで義経に殉じた。【出典

■ 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ): 1885−1976年。志賀直哉、有島武郎らと、文学雑誌の白樺を創刊。トルストイに傾倒し、白樺派の理論的な指導者になった。幸福者、友情など、人生を肯定的に捉えた作品を書いた。【出典

■ 宗尊親王(むねたかしんのう): 1242−1274年。後嵯峨天皇の子。鎌倉幕府の六代将軍。実権は無く、和歌に没頭して幾度も歌会をひらいた。1266年に、北条時宗らに謀反の疑いをかけられて解任、京に送還された。【出典

■ 村井貞勝(むらいさだかつ): 1528?ー1582年。織田信長の側近中の側近。信長の上洛後に京都所司代として民政・行政面で活躍した。本能寺の変では妙覚寺へ駆けつけて、織田信忠を二条御所へ移したが、そこで信忠と討ち死にした。【出典

■ 村上国清(むらかみくにきよ): 1546−1603?。村上義清の子。越後国豪族の山浦家を継いで山浦景国を称した。上杉家の武将として活躍した。その功で、信濃国の海津城主になって、父の旧領を回復した。【出典

■ 村上武吉(むらかみたけよし): 1533−1604年。能島武慶(のしまたけよし)ともいう。能島の村上水軍の当主。豊臣秀吉に叛いて所領を奪われた。その後は、毛利氏に従ったが、1588年の秀吉の海賊取締令によって制海権を失って、水軍は解体した。【出典

■ 村上義明(むらかみよしあき): 村上義明は越後国の本庄に転じ村上城を築いた。その後、松平忠輝の与力となったが、1618年に藩内の騒動により改易。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

■ 村上義清(むらかみよしきよ): 1501?ー1573年。北信濃の覇者として武田信玄と何度も戦って退けた。このため信玄は真田幸隆を通じて村上の武士団の切り崩し工作を行い、義清は上杉謙信のもとに逃れて上杉家の家臣になった。【出典

■ 最上徳内(もがみとくない): 1755ー1836年。出羽国(山形県村山市)の出で。江戸で本多利明に師事して、天文、測量、航海術、地理を学んだ。31歳で幕府の千島列島探査に参加した。以後度々樺太を含む蝦夷地を調査した。アイヌの生活やアイヌ語集などの著作がある。【出典

■ 物部麁鹿火(もののべのあらかひ): ?ー535年。武烈天皇から宣化天皇の大連(おおむらじ)。大伴金村継体天皇の擁立を働きかけた。528年には磐井の乱を鎮圧した。【出典

■ 物部尾輿(もののべのおこし): 欽明天皇の大連(おおむらじ)。仏教の排除を主張し、排仏派の中心となった。崇仏派の蘇我稲目と対立、また任那問題をめぐり、大伴金村を責めて失脚させた。【出典

■ 森鴎外(もりおうがい): 1862−1922年。東京帝国大学医学部を卒業後、陸軍の軍医になって、ドイツに留学。帰国後はロマン的作品の舞姫で文壇に登場した。以後は、翻訳、評論も手がけ、文芸誌のスバルに雁を発表。晩年は、阿部一族、高瀬船、山椒太夫などの歴史小説を執筆した。【出典
・ 本名は林太郎。「鷗外」の由来は諸説有る。東京の千住にあった、「鷗(かもめ)の渡し」に因むという説が有力。「鷗の渡し」は吉原を意味し、その他に鷗外が住んでいた千住を意味する。【出典】 

■ 森可成(もりよしなり): 1523ー1570年。早くから織田信長に仕えて、近江国の宇佐山城をまかされたが、浅井・朝倉軍に攻められて討ち死にした。森長可、森蘭丸の父。【出典

■ 森蘭丸(もりらんまる): 1565ー1582年。織田信長小姓。実名は成利。信長の側近となって、有能な事務官として活躍して、美濃金山城主になったが、本能寺の変で討ち死にした。【出典


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