北条時宗
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■ 北条時宗(ほうじょうときむね)【出典】: 「北条」の名字の由来

・ 1251−1284年。享年34歳(病死)。

・ 出身地: 相模国

・ 家族: 父:北条時頼

・ 肩書き: 鎌倉幕府の八代執権

・ 鎌倉幕府の五代執権の北条時頼の子。幼くして時期執権と目され、14歳で七代執権の北条政村を補佐する「連署」について、1268年に18歳で執権となった。この年は、高麗(朝鮮)からの使者が、日本の服属を求める元(蒙古)の国書を携えてきた年だった。高麗は1259年には元の属国になっていた。元の武力行使もあるとした国書の内容に、朝廷は怯えたが、武家政治を行う鎌倉幕府は迎え撃つ方針とした。その後も、何度か国書がもたらされたが黙殺した。時宗は西国の御家人に守りを固めさせ、御家人たちの団結を強めさせるために国内の統制を行った。時宗が執権になったことに不満を持って、朝廷に接近するなどの動きをしめした兄の北条時輔を誅殺して、謀反を企てたとされる名越時章・名越教時兄弟を討伐した。1274年10月に、3〜4万の元と高麗の連合軍に対馬が襲われ、つぎに壱岐が制圧された。その後日本軍が盛り返して元は撤退した。これを文永の役という。1281年5月に元と高麗の連合軍は、征服した南宋の兵も加えて14万の大船団で襲来した。これを弘安の役という。連合軍は対馬や壱岐を制し、九州への上陸を試みたが、防塁の阻まれた。今度も連合軍は撤退した。これをきっかけに鎌倉幕府は弱体化していった。


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