北条家の人々
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■ 北条早雲(ほうじょうそううん)

■ 北条時宗(ほうじょうときむね)

■ 北条政子(ほうじょうまさこ)

■ 北条氏綱(ほうじょううじつな): 1487−1541年。北条早雲の嫡男。関東地方の制覇を目指して、居城を小田原城に移した。また、伊勢姓を北条姓に改称した。江戸城や河越城を奪取した。【出典

■ 北条氏直(ほうじょううじなお): 1562−1591年。北条氏政の次男。1590年に豊臣秀吉小田原攻めをうけて抗ったが降伏。自害は許されたが、翌年病没した。【出典

■ 北条氏政(ほうじょううじまさ): 北条氏康の次男。徳川氏伊達氏との関係を構築し、領土は最大範囲になったが、豊臣秀吉小田原攻めとなった。子の氏直と秀吉と戦ったが、降伏して自害した。【出典

■ 北条氏康(ほうじょううじやす): 1515−1571年。北条氏綱の嫡男。河越城が上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍の8万人に包囲されたとき、8000人の援軍を率いた氏康は野戦に成功して大勝利を得た。これを河越夜戦という。【出典

■ 北条貞顕(ほうじょうさだあき): 1278−1333年。鎌倉幕府の十五代執権。金沢貞顕ともいう。北条高時の子の邦時が成長するまでの中継ぎとして擁立されたが、一ヶ月で辞した。新田軍の侵攻によって、高時らと共に自害した。【出典

■ 北条貞時(ほうじょうさだとき): 1271−1311年。北条時宗の子。鎌倉幕府の九代執権。1285年に平頼綱の進言によって安達泰盛を討った。これを霜月騒動という。以後は、北条氏による得宗専制政治を強化して、永仁の徳政令を発した。【出典

■ 北条実時(ほうじょうさねとき): 1224−1276年。北条義時の孫。金沢実時ともいう。長く執権を補佐して1275年に引退。学問に秀で、源氏物語の注釈書も手がけた。金沢文庫を創設した。【出典

■ 北条重時(ほうじょうしげとき): 1198−1261年。北条泰時の異母弟。六波羅探題北方の任を17年にわたってつとめた。三浦氏の滅亡ののちに鎌倉に戻り、連署(執権を補佐する役職)に就任し、北条時頼を補佐した。【出典

■ 北条高時(ほうじょうたかとき): 1303−1333年。北条貞時の子、鎌倉幕府の十四代執権元弘の変の際に後醍醐天皇隠岐へ流したが、脱出されてしまう。後醍醐天皇の挙兵に応じた新田義貞が鎌倉に侵攻すると東勝寺へ退いて、一族郎党とともに自害した。【出典

■ 北条綱成(ほうじょうつなしげ): 1515−1587年。北条氏綱にみこまれて娘を娶って、北条姓を賜った。玉縄城の三代目城主。上杉氏らと戦った河越夜戦でも北条軍の一翼として活躍した。【出典

■ 北条時政(ほうじょうときまさ): 1138−1215年。桓武平氏の出。仇の源頼朝が長女の北条政子と通じたときには激怒したが、結局は結婚を認めた。頼朝が挙兵した後には地盤固めに協力して、頼朝の直系の滅亡後には鎌倉幕府の初代執権となった。しかし、最後は政子に幽閉された。【出典

■ 北条時行(ほうじょうときゆき): ?ー1353年。北条高時の次男。新田軍の鎌倉への侵攻の際に鎌倉から逃れて、叔父の北条泰家とともに諏訪氏のもとに身を寄せた。その後に、一度は鎌倉を奪還したが、足利氏に敗れて斬首となった。【出典

■ 北条時頼(ほうじょうときより): 1227−1263年。北条泰時の孫。鎌倉幕府の五代執権。1247年の宝治合戦安達氏三浦氏一族を滅ぼして権力強化を図る一方、庶民に対しても善政を敷いた。【出典

■ 北条長時(ほうじょうながとき): 1230−1264年。北条重時の子。鎌倉幕府の六代執権。事実上の権限を北条時頼が握る中、幕府の体制維持に尽力した。1261年には、幕府の批判をした日蓮を伊豆国へ流罪とした。【出典

■ 北条政村(ほうじょうまさむら): 1205−1273年。北条義時の子。鎌倉幕府の七代執権北条長時の病死によって60歳で執権になったが、長時と同じく中継ぎ役であった。元寇を前に退いて、連署として次の北条時宗を補佐した。【出典

■ 北条守時(ほうじょうもりとき): ?ー1333年。鎌倉幕府の十六代執権。実権が無く立場が悪化する中、みずから新田軍を迎え撃つべく出陣した。小袋坂(巨福呂坂)の前線で戦ったが、敗走して自害した。【出典

■ 北条師時(ほうじょうもろとき): 1275−1311年。鎌倉幕府の十代執権。若くして評定衆になって、貞時の出家に伴って執権に就任したが、貞時から一ヶ月早く病死した。【出典

■ 北条泰時(ほうじょうやすとき): 1183−1242年。北条義時の子、鎌倉幕府の三代執権。1225年に北条政子が亡くなると、連署評定衆を設け、1232年に日本で最初の武家法の「御成敗式目」を制定した。【出典

■ 北条義時(ほうじょうよしとき): 1163−1224年。北条時政の子であって北条政子の弟。鎌倉幕府の二代執権。父の時政を幕府から追放した。和田氏を滅ぼして政所別当と侍所別当を兼任した。承久の乱でも幕府軍は完勝し、最高権力者としての地位を築いた。【出典


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