「上杉」の名字の由来
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■ 上杉(うえすぎ)

【2021/02/12:改編】

# 802位

# 氏族の一つで、元は公家

# 藤原北家良門流などにみられる。

# 代表家紋

# 丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)をルーツとする上杉氏は藤原北家勧修寺高藤流。鎌倉時代、源将軍は三代で滅び、その後は親王を将軍として迎えた。宗尊親王が6代将軍として鎌倉に下向する際についてきたのが勧修寺重房で上杉の領地を賜って上杉氏を称した。上杉謙信の家紋

# 上杉謙信は上杉氏の名を継いだが、桓武平氏長尾家の出。

# 主なルーツ地

・ 丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)をルーツとする。

# 山形県の上杉家

# 山形県の上杉家: 米沢藩主桓武平氏の出で、もとは長尾氏を称し、越後国に勢力を持ち、関東管領の上杉氏に従ったが、上杉家の家督を嗣いだ。越後国春日山から陸奥国会津若松を経て、江戸時代には米沢藩主。【出典

・ 米沢藩主。桓武平氏の長尾氏の出で、長尾景虎が上杉の家督を譲られて上杉氏を称した。越後から会津と移り、江戸時代出羽国米沢30万石(後に15万石)。【家紋:竹に二羽飛び雀】明治維新後には伯爵

・ 米沢藩主。越後の上杉氏の子孫。上杉謙信は春日山城に拠って、越後・越中・能登・加賀・飛騨・上野を支配した。子(養子で姉の子)は豊臣秀吉の五大老の一人となり、会津若松120万石を領した。関ヶ原の戦いの際には西軍に属し、1601年に出羽米沢30万石に減転となった。さらに1664年に世子がいないままに綱勝が死去、吉良義央の長男の綱憲が末期養子となって相続したが15万石に減封となった。そのため、多数の家臣を抱えて貧困に苦しみ、藩政改革で有名な上杉治憲(鷹山)を生んだ。幕末に1万石を加増されたが、奥羽越列藩同盟に参加したため、1868年に14万石に減知となった。明治時代には伯爵。【出典

・ 米沢藩上杉鷹山秋月家からの養子。

・ 出羽国米沢藩(18万7千石)の上杉家の幕末の藩主の斉憲は種痘の奨励や西洋砲術の習得にとりくみ京都の警備で功績をあげた。最後の藩主の茂憲は英国留学の後沖縄県令などを務めた。

# 山形県の上杉家: 米沢新田藩主。上杉綱憲の四男の勝周(かつちか)が1719年に兄の吉憲から領内の新田1万石を分知されて米沢新田藩を立藩したのが祖。藩庁は米沢城内にあり、1万石も蔵米で支給された。1869年に勝道は所領を本藩に返上し、その後子爵へ。【出典

# 新潟県の上杉家(長尾家): 越後国の守護代。越後の長尾氏は関東の長尾氏の一族ではあるが、系譜上のつながりについては諸説あってはっきりしない。南北朝時代に越後国の守護代となった景恒が祖。邦景は応永の乱では関東公方方につき、永享の乱では幕府方に与して足利持氏と戦っている。また、結城合戦では、子の実景が安王丸・春王丸を捕らえ、美濃国垂井(岐阜県不破郡垂井町)で殺害した。1450年に邦景が守護の上杉房定から切腹を命じられると、実景は信濃国に逃れ、代わって頼景が守護代に就任し、以後長尾氏の嫡流は頼景の系統に移っている。1507年に為景は守護の上杉房能に反旗を翻し、天水越(新潟県十日町市)で自害に追い込んだ。1509年に、房能の実兄で関東管領の顕定が上田長尾氏と共に為景討伐の軍を起こすと、為景はいったん敗れて越中国に逃れたものの、立て直して顕定を長森原(新潟県南魚沼市)で討ち、以後実質的に越後国を支配した。
1530年に上杉氏一族の上杉定憲が旧上杉勢力を結集して上条城(新潟県柏崎市)で再起し、長尾為景と激しく戦った(天文の乱)。この戦いは1536年に為景が死去したことで決着がつかないまま終息した。しかし、長男の晴景が病弱であったことから、今度は国衆が従わなくなり、国内が再び乱れた。そこで、二男の景虎が兄に代わって長尾家の家督を相続。1550年に守護の上杉定実が跡継ぎのいないまま死去すると、将軍の足利義輝から越後国主として認められて越後国を統一。さらに、上杉憲政から上杉氏の家督も譲られて上杉謙信と号し、戦国大名の上杉家となった。以後、春日山城に拠り、越後国・越中国・能登国・加賀国・飛騨国・上野国を支配した。子の景勝は豊臣秀吉の五大老の一人となり、会津若松120万石に転じた。【出典

# 上杉家

# 上杉鷹山

# 米沢藩 ・ 米沢新田藩

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