「上杉」の名字の由来 | |
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■ 上杉(うえすぎ)
【2023/07/22:改編】
# 802位
# 藤原北家良門流などにみられる。
# 代表家紋
# 上杉氏は、勧修寺流藤原氏の一族であった重房が、鎌倉幕府の六代将軍の宗尊親王に従って関東に下向して、丹波国上杉荘を賜って上杉氏を称した。その後、上杉氏は足利氏と姻戚関係を深めていった。足利尊氏や足利直義の生母の清子も上杉氏の出。【出典】
# 丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)をルーツとする上杉氏は藤原北家の勧修寺高藤流。鎌倉時代、源将軍は三代で滅び、その後は親王を将軍として迎えた。宗尊親王が6代将軍として鎌倉に下向する際についてきたのが勧修寺重房で上杉の領地を賜って上杉氏を称した。上杉謙信の家紋。
# 関東管領の扇谷上杉氏。上杉顕定が朝定の養子になって相模国に転じ、鎌倉の扇谷(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷)に住んで扇谷上杉氏になったのが祖。永享の乱の後、持朝は相模国の守護になって、さらに長禄元年(1457年)には家宰の太田道灌に江戸・岩付・河越の三城を築かせた。文明18年(1486年)に定正は太田道灌を謀殺、これを機に山内家との争いが続いた。これを長享の大乱という。明応3年(1494年)に定正は山内家の上杉顕定と対陣中に死去した。跡を継いだ甥の朝良は永正元年(1504年)に北条早雲と結んで顕定を攻めたが失敗。永正9年には北条早雲が鎌倉に入り、永正13年には三浦氏を滅ぼして相模国を平定した。朝良の跡は藤王丸が継いだが、実権を握った朝興は天文元年(1532年)に藤王丸を殺害した。しかし、朝興も天文6年に死去、跡を継いだ朝定は北条氏綱に敗れ河越城から逃れた。天文15年に上杉憲政とともに河越城の奪還を試みたものの、北条綱成・氏康に敗れて討ち死にして滅亡した。【出典】
# 主なルーツ地
・ 丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)をルーツとする。
# 山形県の上杉家
# 上杉家
# 「上」のつく名字。
# 「杉・椙」のつく名字。
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