足利家の人々
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 足利尊氏(あしかがたかうじ)

■ 足利義昭(あしかがよしあき)

■ 足利義政(あしかがよしまさ)

■ 足利義満(あしかがよしみつ)

■ 足利直義(あしかがなおよし): 1306−1352年。足利尊氏の弟。室町幕府の成立後には副将軍として主に政務を担当し、公家や寺社勢力とも折り合いをつけていたが、高師直と対立して武力衝突に発展。勝利したが、尊氏とも対立した。鎌倉で没したが、尊氏が毒殺したという説がある。【出典

■ 足利政氏(あしかがまさうじ): 1462ー1531年。二代の古河公方山内上杉氏に従って、扇谷上杉氏との戦いに参戦。両上杉氏の和解後に、息子の高基(たかもと)と対立し、古河城と古河公方の座を奪われた。その後、出家して隠居した。【出典

■ 足利持氏(あしかがもちうじ): 1398−1439年。四代鎌倉公方上杉禅秀の乱の平定後、幕府と対立した。将軍職を望んだが、くじ引きで義教に敗れた。関東管領上杉憲実と対立して永享の乱をおこして、自害した。【出典

■ 足利基氏(あしかがもとうじ): 1340−1367年。足利尊氏の第四子。10歳で鎌倉府の初代長官(鎌倉公方)になった。補佐したのは後の関東管領の上杉憲顕。基氏は南朝を抑えて、尊氏の死後は新田義貞の子の義興を滅ぼした。【出典

■ 足利義稙(あしかがよしたね): 1466−1523年。室町幕府の十代将軍。足利義視の子。足利義尚の死後、将軍になったが、管領細川氏と対立して、幽閉され、その後に復帰するも再び廃された。亡命先の阿波国で死去した。【出典

■ 足利義輝(あしかがよしてる): 1536−1565年。室町幕府の十三代将軍。管領の細川晴元に京を追われた父の義晴と逃亡中に将軍職を譲られた。帰京後には、みずから政治を行ったが、松永久秀に襲われて自害した。【出典

■ 足利義教(あしかがよしのり): 1394−1441年。室町幕府の六代将軍。五代将軍の義量(よしかず)が夭逝して、義持が後継者を決めずに、くじ引きで将軍に選ばれた。天台座主から還俗して将軍になった。幕府の権威高揚につとめたが、弾圧政治のため赤松満祐に殺された。【出典

■ 足利義尚(あしかがよしひさ): 1465−1489年。応仁の乱の途中に、九歳で九代将軍になった。義政が退いたのちに、将軍の権力を回復して政治の立て直しを図ろうとし、所領を横領した近江国守護六角氏の討伐に出陣したが、陣中で病死した。【出典

■ 足利義視(あしかがよしみ): 足利義政の弟。義政に子がいないときに、還俗して後継者になったが、後に義尚(よしひさ)が生まれたため、後継者争いが生じた。はじめは細川勝元に頼って、後には山名氏方に転じた。義尚の死後は義政と和睦した。【出典

■ 足利義持(あしかがよしもち): 1386−1428年。室町幕府の四代将軍。実権は、管領の細川満元らに握られていた。父の足利義満は弟の善嗣を偏愛したため不仲になった。義満の死後、花の御所を破壊し、日明貿易も中止した。【出典


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

統計表示