公方
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■ 公方(くぼう)

# 公方(くぼう)とはは、前近代の日本において、国家に関する公(おおやけ)のことを体現する方面および国家的統治権、すなわち古い時代の天皇やその朝廷、鎌倉時代、室町時代の将軍に起源する言葉である。【Wikipediaより】

・ 江戸時代の徳川将軍家も「公方」と言われたようですね。

# 鎌倉公方: 室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官のこと。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。関東10か国とは、相模国武蔵国安房国上総国下総国常陸国上野国下野国伊豆国甲斐国である。【Wikipediaより】

・ 足利基氏を継いだ、代々の鎌倉公方は京の政局が不安定になると、自らが将軍になる野望を抱いて、補佐役であると同時にお目付役でもあった管領とたびたび対立した。その結果、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(1416年)・永享の乱(1438〜1439年)・結城合戦(1440年)といった争いが度々生じた。これらの戦いの鎮圧のために派遣されたのが、駿河国の守護今川家、甲斐国の守護の武武田家、越後国の守護の上上杉家守護代長尾家であった。【出典

# 古河公方: 室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。【Wikipediaより】  

# 堀越公方: 古河公方と関東管領は数千から数万の兵力を動員して合戦を繰り返したが、決着がつかず戦いは長引いた。事態を憂慮した京の将軍家の足利義政長禄元年(1457年)に、庶兄の政知を新たな公方として下向させたが、事態の収拾には至らないどころか、鎌倉にすら入ることができず、伊豆の堀越(ほりごえ)に滞在して堀越公方と呼ばれるようになった。【出典

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