常陸国
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# 旧東海道。

# 現在の茨城県

# 太閤検地での石高: 53万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】 。常陸国は1位。

# 常陸の由来には様々な説があるが、その一つは東北への玄関だから。昔、東北地方は「日高見(ひだかみ)」と呼ばれ、常陸国あたりは「日高路(ひだかじ)」と言われていた。その「ひだかじ」が「ひたち」になった。

# 常陸: 孝徳天皇の時代に、この地は人々が往来する道が湖や海の渡し場によって隔てられておらず、郡や郷の境界が山から河へ、峰から谷へ次々に続いていることから「直通(ひたみち)」と呼ばれ、これが変化したという説が有力。【出典

# 「常陸」は「直路」。蝦夷へのまっすぐな道という意味。

# 常陸国風土記によると、常陸は川などに遮られない、真っ直ぐな道、「直通(ひたみち)」に由来する。

# 常陸国風土記によると、日本武尊蝦夷征伐する際にこの地を訪れ、井戸を掘らせたら、きれいな水が出てきた。そこで、手を洗ったら袖が濡れた。「袖を浸して濡れた」ことから、「浸し」→「ひたち」となった。

# 常陸国は親王を国司とする国とされた。常陸宮?

# 室町時代の常陸の守護佐竹氏

# 常陸国の国府は石岡市立石岡小学校のところにあった。国府の北、約1.6Kmにあった鹿の子遺跡では、むかし蝦夷攻撃用の武器が作られていた。【日本の古代道路 道路は社会をどう変えたのか 近江俊秀 角川選書】

■ 伊佐郡(いさ): 常陸国の郡名。当郡は平安末期には伊佐(伊達)氏の本領であった。「寛政譜」に「実宗常陸国真壁郡伊佐の庄中村に住するがゆへに、伊佐あるひは中村を称す。朝宗がとき陸奥国伊達郡に住し、はじめて家号を伊達と称し」と見える。【出典

■ 稲敷郡(いなしき): 茨城県の郡名。
・ 稲敷郷(いなじきのごう): 平安時代に常陸国信太(しだ)郡にみられた郷名。現在の竜ケ崎市中・北部のあたりに比定される。【出典

■ 信太郡(しだ): 常陸国・茨城県の郡名で、霞ケ浦の南岸に位置する。郡名の由来は、「万葉集註釈」所収の「風土記」逸文に、蝦夷を征討した黒坂命が、その帰途多歌の郡の角枯の山(竪破(たつわれ)山)で病死したが、日高見の国で行われた葬儀では、盛大に赤や青の旗が翻り、その旗が長く垂れ下がったので、赤幡の垂(しだり)の国というようになり、のちに信太の国となったという説話が見える。【出典
・ 稲敷郷(いなじきのごう): 茨城県。平安時代から常陸国信太(しだ)郡にみられた郷名。「八代村ニ稲塚ト云フ丘アリ、イネツカト訓ス、蓋イナジキノ転ナリ」とある。「風土記」に「其(稲敷郷付近か)の里の西に飯名の社あり。此は即ち、筑波岳に有せる飯名の神の別属なり」と見える飯名の社が稲敷の語源となったという。すなわち、飯名の神の敷地の意とし、八代村の村名も同社にちなむとする。【出典

# 朝夷郷: 平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国信太(しだ)郡十四郷の1つ。「新編常陸」に「今ノ河内郡根本村ニ,アサヒナト云ヘル坪名アリ」と見え、現在の新利根町下根本の字朝日向・朝日向久保が遺称地と考えられる。【出典

■ 行方郡(なめがた): 茨城県。常陸国・茨城県の郡名。「和名抄」に奈女加多とある。郡名の由来は、倭武天皇(日本武尊)が東国巡狩の際、現原の丘から四方を望んで山や海の配置の妙をたたえ、行細(なめくわし)の国と称するよう言ったことによるという。【出典
・ 行方(なめかた): 茨城県行方郡。平坦な地形が続いているところ。【地名苗字読み解き事典 丹羽基二 柏書房】

■ 新治郡(にいはり): 奈良時代から平安時代にかけて常陸国にみられた郡名。「日本書紀」に珥比麼利、「古事記」に邇比婆里と見える。下野(しもつけ)・下総両国との境の涸沼川上流一帯から桜川上流および小貝川の流域一帯の地。中世には新治郡の名は見えない。なお、文禄の太閤検地により、霞ケ浦北岸一帯から桜川下流および恋瀬川の流域一帯の地が新治郡となるが、古代の新治郡とは位置が異なる。【出典

■ 常陸国風土記より【風土記 吉野裕訳 平凡社】

# 我姫(あづま)
・ 古くは相模の国の足柄の坂から東のもろもろの県(あがた)を総称して我姫(あづま)の国といった。その当時は常陸とはいわず、ただ新治(にひはり)・筑波(つくば)・茨城(うばらぎ)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の国と称し、おのおの造(みやっこ)・別(わけ)を派遣して、検校(おさめ)させたのである。

※ このように、当初は「常陸」や「相模」といった国が確立していなかったが、孝徳天皇(596−654年)の時代に「足柄の坂から東の国々を総領させた。この時、我姫(あづま)の地方を八ヶ国に分けた。「陸奥」「出羽」「常陸」「上野」「下野」「武蔵」「上総」「下総」「安房」「相模」だと思うがこれだと10だな。「上総と下総」「上野と下野」がそれぞれ一つだったのかな?

# 常陸の語源
・ 人々の行き通う道路が、広い川や海の渡し場で隔てられておらず、郡や郷の境界が山から河へ峰から谷へ次々に続いているので、近く通う事ができる。
・ 日本武尊が東の夷(えびす)の国を巡察した時、新治(にいはり)の県(あがた)を通った時、新しく井戸を掘らせると、流れ出る泉が清らかに澄んで心ひかれる美しさであった。日本武尊は水で手を洗ったが、着物の袖が泉に濡れてしまった。つまり。「袖を浸す」から「ひたし」「ひたち」となった。
・ 常陸国を昔の人は「常世(とこよ)の国」と言った。常世の国とは、不老長寿の理想郷のことで、山海の幸に恵まれていたことによる。

# 茨城(うばらき)の郡(こおり)
・ 茨城県の由来となった郡名。今の那珂郡あたり?
・ 古老がいうことには、「昔、国巣(くず・ツチグモのこと)山の佐伯(さえき)、野の佐伯があった。いたるところに土の穴倉を掘って置き、いつも穴に住んでいた。誰か来る人があるとそのまま穴倉に入って身を隠し、その人が去るとまた野原に出て遊ぶ。狼の性(さが)と梟(ふくろう)の情(こころ)をもち、鼠のごとく隙をうかがってかすめ盗む。誰からも招かれ手なずけられることがなく、ますます世間一般の風習から遠ざかっていったのである。この時大臣(おほのおみ)の同族の黒坂命は、かれらが外に出て遊んでいる時をねらって、茨棘(うばら)を穴の内側に仕掛け、ただちに騎馬の兵を放って急に追い攻めさせた。佐伯どもはいつものように土の穴倉に走り帰り、ことごとくみんな茨棘にひっかかり、突き刺さって、傷つき害されてちりじりに死んだ。だから茨棘の意をとって県(あがた)の名につけた。」

# 香島(かしま)の郡(こおり)
古老がいうことには「難波の長柄豊前の大朝(おほみや)に天の下をお治めになった天皇(孝徳天皇)のみ世、(中略)下総の国の海上(うなかみ)の国造の管内の軽野から南の一と里(さと)と、那賀の国造の管内の寒田(さむた)以北の五里とを割いて、別に神の郡を置いた。そこにある天の大神の社と坂戸の社・沼尾の社と三社を合わせて総称して香島の天の大神ととなえる。それによって郡の名につけた。」

# 久慈(くじ)の郡(こおり)
・ 常陸国風土記によると、郡役所から南の近いところに小さな丘がある。その形が鯨鯢に似ているので、倭武天皇が久慈と名づけた。
・ 郡役所の北二里のところに山田の里がある。沢山開墾して田としている。それによって名としている。
・ 郡役所の東七里のところに太田の里があり、長幡部(ながはたべ)の社がある。
※ 長幡部の社: 茨城県常陸太田市幡にある。
・ 太田里の北に薩都(さつ)の里がある。昔、土雲(つちぐも)と名乗る国栖(くず)【「クズ・クジ・グジョ」の語源】があった。ここに兎上(うのかみ)命は兵を発してその罪を問うて攻め滅ぼした。そのとき、「(兵に)よく殺させて福(きち)なるかも(仕合わせなことだ)」と言われた。それによって「佐都(さつ)」と名づけた。
・ いわゆる高市(たけち・市場)、ここから東北二里のところに密筑(みつき)の里がある。密筑の里から北東に三十里のところに助川の駅家がある。昔は遇鹿(あふか)と言った。古老がいうことには、「倭武天皇がここにおいでになった時、皇后が来てお遇いになった。それで名づけた。」と。国宰久米の大夫の時になって、河から鮭をとったために、名を助川と改めた。地元の言葉では鮭の親を「スケ」と言った。

# 信太(しだ)の郡役所(こおり)
・ 東は信太の流海(ながれうみ・霞ヶ浦)、南は榎の浦(えのうら)の流海、西は毛野の河(鬼怒川)、北は河内の郡。
・ ここは、以前は日高見の国(太陽が昇る方向にある国)。
・ 黒坂命が陸奥の蝦夷を征討し凱旋した。多歌(たか)の郡の角枯(つのかれ)の山まで来たとき、黒坂命は病気で亡くなった。そこで角枯(山の名前)を改めて黒前(くろさき)の山と名付けた。黒坂命の棺が黒前の山から日高見の国にさしかかった時、葬儀の赤幡と青幡が交錯してひるがえり、雲の如く虹をかけた如くに野を照らし路を輝かした。時の人はそれで赤幡の垂(しだり)の国と言った。後世、これを信太の国と呼んだ。

# 多珂(たか)の郡(こおり) 
・ 古老がいうことには、「斯我高穴穂宮大八州照臨天皇(成務天皇)の世に、建御狭日命(たけみさひめのみこと)をもって、多珂国造に任じた。この人が初めてやってきて、地形を巡歴踏査したとき、峰はけわしく山が高いところだと思って、それで多珂の国と名づけた。」
・ 建御狭日命は、派遣されたそのときに久慈郡と堺の助川をもって道前(みちのくち)とし、陸奥(みちのく)の国の石城(いはき)の郡の苦麻(くま)の村を道後(みちのしり)」とした。【常陸国風土記
※ 道前は多珂国にはいる交通路の要衝の意味で、道後はその終わるところをいう。

# 筑波(つくは)の郡(こおり)
・ 筑波は以前は「紀の国」と言った。崇神天皇の時代に、筑箪命(つくはのみこと)を紀の国の国造として遣わした。築箪命は「私自身の名前を国名につけて、後の世までいい伝えさせるようにしたいものだ」と言った。そして紀の国は筑波と称した。

# 那賀(なか)の郡(こおり)
・ 常陸国風土記に「努賀び古(ぬかびこ)」と「努賀び売(ぬかびめ)」という兄妹の話がでてくるが、それに由来するのか?

# 行方(なめかた)の郡(こおり)
・ 古老がいうことには、「難波の長柄(ながら)の豊前(とよさき)の大宮に天の下をお治めになった天皇(孝徳天皇)のみ世の癸丑(みずのとうし)の年(653年)に、茨城の国造小乙下壬生連麿(せうおつのしもつしなみぶのむらじまろ)・那珂の国造大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたひをのこ)が、総領高向の太夫・中臣幡織田(なかとみのはたおりだ)の太夫らに誓願して、茨城の地の八つの里と那珂の地の七つの里を割き、七百余戸を合わせて別に郡を置いた。」
 行方の郡と称するわけは、「倭武天皇が天の下を巡察して海北の地を征討平定し、ちょうどその時この国を通過なされた。そして槻野の清い泉にお立ち寄りになり、水に近寄って手を洗い、お持ちになっていた玉を井の中に落とされた。その井はいまだに行方の里の中に有り玉清(たまきよ)の井と言っている。さらに、お乗り物を廻して現原(あらはら)の丘においでになり、お食事をお供えした。その時天皇はあたりを眺望してお付きの侍臣たちを振り返って「輿を停めて逍遥し、眼をあげて見渡せば、山ひだは高く低く入り交じり重なりあい、海の入江は長々とうねり続く。峰の頭には雲を浮かべ、渓の腹には霧を抱く。風光いと輿趣あり、国の姿は心ひかれるめずらしさである。まことこの地の名を行細(なめくはし・布置の精妙)の国というべきである」とおっしゃられた。後の世にものの(仰せの)あとを追っていまだに行方(なめかた)とよんでいる。

# 新治(にいはり)の郡(こおり)
・ 井を新しく治(はり)ひらいたことに由来する。井とはいわゆる井戸だけではなく、水源全体を指し、井の周囲には村落ができた。
治(はる)とは、水流を作ることを意味し、新治とは新しく開墾することを意味する。
郡役所から東五十里の所に笠間の村がある。
※ この場合の一里はどのくらいか?

# 結城(ゆうき)の郡(こおり): 旧下総国。茨城県結城市周辺。
・ 「和名抄」に「結城〈由不岐〉」と見える。鬼怒(きぬ)川流域の地。郡名の由来について「古語拾遺」は穀木(かじのき)がよく生育する地であったことによるとする。穀木とは「和名抄」に楮と同じと見え、この木の皮を剥ぎ、繊維を蒸して水に浸し、細かく裂いて糸としたものを木綿(ゆう)といったから、ゆふの木が自生するに適した地という意味でユフキといったのであろう。【出典

■ 板来(潮来?): 常陸国風土記に名が見える。

■ 鹿島神宮: 常陸国の一宮。平安時代に編纂された延喜式の神名帳(古代国家に登録された各国の神社帳簿)で「神宮」とされていたのは、「伊勢神宮」「香取神宮」「鹿島神宮」の三社のみ。現在、鹿島神宮の正殿は北に面しているが、これは祭神のタケミカヅチが蝦夷の征討に重要な役割を果たしていたからと考えられる。平安時代には、鹿島神宮の宮司は中臣氏が世襲していた。【古代風土記の事典 東京堂出版】


# 続日本紀文武天皇2年(698年): 9月28日: 近江国に金青(こんじょう・紺青とも書き、青色の顔料)を献上させた。伊勢国には、朱沙(すさ)・雄黄(ゆうおう)、常陸・備前・伊予・日向の四国には朱沙(すさ)、安芸・長門の二国には金青(こんじょう)・緑青(ろくしょう)、豊後国には真朱(まそほ)を献上させた。(いずれも顔料)

# カシマ大神

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