中臣氏
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■ 中臣氏(なかとみ-うじ): 「中臣」の名字の由来

・ 古代豪族で大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)

・ 中臣鎌足は歴史上突然現れたり消えたりしている。一説には「鹿島神宮神官」だったという説もあるそうだが、【ヤマト王権と十大豪族の正体 物部、蘇我、大伴、出雲国造家 関 裕二著 PHP新書】では、百済の王子の「豊璋(ほうしょう)」ではないかとしている。

・ 天児屋命を祖とする。

・ 宮中の神事を司った。

・ 姓(かばね)は「連」から「朝臣

・ 「中つ臣」が転訛して「なかとみ」となった。

・ 神と人間の中間にいる臣の意味。

# 中臣鎌足はその業績により、天智天皇から鏡王女(かがみのおおきみ)を正妻として下賜され、「大織冠」という、これまで無かった位を授かり内大臣に任じられ、死後には中臣氏から独立せよとのことで、藤原姓を賜った。【伝説の日本史 第1巻〜神代・奈良・平安時代 「怨霊信仰」が伝説を生んだ〜 井沢元彦】

# 中臣氏の一族: 藍氏

# 中臣(なかとみ)氏

・ 主に神祇職を担った上級氏族。氏名は「ナカツオミ(中ッ臣)」が転化して「ナカトミ」になったもので、原義は「神と人との中をとりもつ臣」の意味で、この職名に由来する。本拠地については_脇盥顱↓大和国、K前国、ぞ鑪国などの諸説がある。この内,硫脇盥饑發傍証も多く通説となっている。すなわち、氏神である枚岡社も河内郡に所在し、中臣系図にも初期の一族は、河内国に居住していた。なお、い両鑪国説も有力な異説で、前身を卜部とする。中臣氏が宮廷に進出し、地歩を築くのは六世紀前後で、継体天皇の支持勢力となり、おもに祭祀・儀礼を職掌としたことによる。日本書紀や古事記には、祖神の天児屋根命が神事の執行、祝詞の奏上などの所伝が語られている。推古天皇・舒明天皇の時代には御食子などが前事奏官兼祭官となっているが、前事奏官は神意を卜占し奏上する官、祭官は祭祀を司る官である。このような役割が、先の日本書紀や古事記神話に反映されている。姓はもとは連で、天武天皇十三年(684年)に朝臣となった。さらに神護景雲三年(769年)に清麻呂の第二門の系統は大中臣が賜与された。また、鎌足が天智八年(669年)に藤原に氏名が改められたことを受けて、神祇職に従事している者以外は、藤(葛)原を称していたが、文武天皇二年(698年)に旧の中臣に戻された。同族・同系氏族は新撰姓氏録の神別には、藤原氏をはじめ四十二氏がおりもっとも多い。他にも同系ではないが、神祇職に関係したことにより中臣を冠称する複姓氏族もいる。一族から多数の上級官人を輩出したが、なかでも神祇官の枢要な地位につく者がとくに多かった。また、氏上は伊勢神宮の祭主を兼任し、一族は伊勢神宮の斎宮寮、太宰府の主神司、地方の神宮司などの神祇職を独占し、神祇氏族の特徴を後々まで伝えている。一族は敏達天皇の時代の可多能古から、御食子(一門)・国子(二門)・糠手古(三門)の三門の系統に分かれたが、このうち二門がもっとも繁栄した。二門からは和銅四年(711年)に神祇伯・中納言・正四位上で卒した意美麻呂、天平宝字八年(764年)ころ神祇伯、宝亀二年(771年)に右大臣になり、国の旧老として賞せられた清麻呂などがいる。また、万葉歌人としては中臣宅守が著名である。一門からは藤原鎌足が出ており、三門には天智天皇九年(670年)に右大臣になった金がいる。氏神は枚岡社(大阪府東大阪市出雲井町)で、祭神は藤原氏の氏神の春日社(奈良県奈良市春日野町)と同じであるが、祖神の天児屋根命および比売神は元来、枚岡社の祭神で春日社にも分霊されたものである。氏寺は二門の国足が天武天皇時代に創建した法光(中臣)寺、三門の大島が発願し、霊亀元年(715年)に比売朝臣額田により大和国城上郡に建立した粟原寺(奈良県桜井市粟原)がある。【出典
※ 一門の藤原鎌足の系統が一番繁栄したのではないのか?

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