「佐竹」の名字の由来
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 「さ」行の名字
植物関連の名字  
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 佐竹(さたけ)

【2021/02/27:改編】

# 527位

# 代表家紋

# 清和源氏などに見られる。

# 高知県:68位、山形県:84位、宮城県:116位、徳島県:314位、福島県:332位など。

# 河内源氏である源義光の子である義業(よしなり)を祖とし、領地の常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に由来する。佐竹隆義の家紋

# 「武田氏」「小笠原氏」「南部氏」は同族。

# 山城国佐竹城(京都府右京区)由来の佐竹氏もあった。

# 佐竹から派生した名字には、「袋田」「大野」「山田」「常陸」「岡田」「白石」「小山」「大沢」「和田」「大山」「石塚」「南酒出(みなみさかで)」「北酒出(きたさかで)」「稲木」「額田」「真崎」「稲本」「小川」「高部」「長倉」「大内」「中条」「小瀬」「山入」「小場」「藤井」「栗崎」「戸村」「上村」「天神林」「岡内」「宇留野」「久米」「今宮」などがある。

# 「佐」は下野国佐野庄や左衛門尉(さえもんのじょう)の職名を、「竹」は植物の竹を表す。

# 主なルーツ地

・ 常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)をルーツとする。

・ 山城国佐竹城(京都府右京区)をルーツとする。

# 佐竹家(さたけけ): 家紋「五本骨扇に月の丸」

・ 清和源氏義光流。常陸国久慈郡佐竹郷に住んだ佐竹冠者昌義を祖とする。関ヶ原の戦いの後は出羽国久保田を与えられた。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 秋田県の佐竹家: 秋田(久保田)藩主常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)をルーツとし清和源氏の出。源義光が常陸介となって佐竹郷を領し、その子の義業が下向して佐竹氏を称した。関ヶ原の戦いで中立を保ったため、秋田(久保田)に転封となった。

・ 秋田藩主。関ヶ原の合戦の際、義宣は石田三成と親交があったため西軍に与し、徳川家康の会津攻めを背後から討とうとしたが果たせず、戦後出羽久保田(秋田市)20万5000石に減転となった。義宣には世子がなかったことから、義宣の弟で磐城家を継いでいた貞隆の長男の義隆が継ぎ、秋田藩の藩政の基礎を固めた。八代の義敦は曙山と号した画家としても有名で、その子の九代目義和は江戸時代中期に藩政改革を行った名君として有名。戊辰戦争では奥羽列藩同盟には加わらず官軍に属し、明治時代には侯爵。一族に秋田新田藩を立藩した壱岐守家のほか、湯沢佐竹(南家)、角館佐竹家(北家)、大館佐竹家(西家)、東家があり、壱岐守家は子爵、他の四家は男爵となった。【出典

・ 源義光の孫の昌義が1133年に常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に住んだのに始まる。昌義は奥州平泉の藤原清衡の娘と結婚。室町時代には足利尊氏に従って常陸国の守護になった。豊臣秀吉の小田原攻めに参加して54万石を得たが、関ヶ原の多々マイでは西軍よりで、江戸時代には出羽国久保田(秋田)20万石へ。

# 秋田県の佐竹家: 秋田新田藩。佐竹壱岐守家。秋田藩の二代藩主の義隆の四男の義長を祖とする。

・ 佐竹壱岐守家。秋田藩の二代藩主の佐竹義隆の四男の義長が祖。代々壱岐守となったため、壱岐守家と言われた。義長は1701年に2万石を分知され、秋田新田藩を立藩した。1870年に岩崎藩と改称し、その後子爵へ。【出典

# 秋田県の佐竹家: 佐竹北家。天文年間に佐竹義信が常陸太田城の北に住んで北家と呼ばれた。江戸時代には角館に住み、角館家とも呼ばれた。

# 秋田県の佐竹家: 秋田藩家老。佐竹東家。佐竹義治の四男の政義を祖とする。常陸太田城の東に住んで東家と呼ばれた。

# 秋田県の佐竹家: 佐竹南家。佐竹義里が常陸太田城の南に住んで南家と呼ばれた。江戸時代には羽後国湯沢(秋田県湯沢市)を領した。

# 秋田県の佐竹家: 秋田藩家老。佐竹西家。大館領主。 

・ 秋田藩の家老。大館領主。室町時代に佐竹義篤の子の義躬が常陸国那珂郡小場(おば・茨城県常陸大宮市小場)を領して小場城を築城し、小場氏を称したのが祖。その後、佐竹氏と共に出羽国に転じて大館城代となり、江戸時代には佐竹西家を称して秋田藩の家老を務めた。幕末に、藩主の代理で戊辰戦争に出兵し、明治時代には男爵出典

# 山形県の佐竹家: 西村山郡常盤村(山形県西村山郡朝日町)の旧家。 

# 茨城県の佐竹家: 清和源氏の源義光の子孫。義光の子の義業が常陸国佐竹(茨城県常陸太田市)を本拠とし、佐竹氏を称した。【出典】 

・ 佐竹氏: 常陸国の戦国大名。清和源氏の出。源義光は兄の義家を援けて常陸介となり、子の義業が下向して常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を領した。義業の子の昌義は佐竹氏を称し、常陸国北部に勢力を広げ、昌義は奥七郡(那珂東・那珂西・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・多珂)を領した。1180年に源頼朝が挙兵した際、佐竹隆義は京都で平氏に従っていたことから、在国の秀義は金砂山(かなさやま)城に拠って頼朝に抗したが敗れ、奥七郡を没収された。1189年の奥州藤原氏の討伐の際には秀義が頼朝に仕えて功をあげて、所領の一部を回復して御家人に列した。南北朝時代に貞義は北朝に属して、1336年に常陸国の守護となり奥七郡を回復し、以後常陸国の守護を世襲した。多くの庶子家を分出して惣領制を確立、また上杉憲定の子の義仁(義憲)を養子に迎え、関東管領の上杉氏と結んだ。義篤は下野国の那須氏の内紛に乗じて下野国那須地方に進出、その子の義昭は常陸国南部の小田氏を攻めるなど、戦国大名として発展した。1567年に義重の時には奥州南部まで勢力を広げ、子の義宣は江戸氏、大掾氏を滅ぼして水戸に移り、豊臣政権下では54万石を領した。関ヶ原の合戦のときには、義宣は石田三成と親交があったため西軍に属し、徳川家康の会津攻めを背後から討とうとしたが果たせず、戦後出羽国久保田(秋田市)20万5000石に減じて転封となった。【出典

# 佐竹郷: 平安時代に常陸国久慈郡にみられた郷名。「和名抄」常陸国久慈郡二十郷の1つ。狭竹物部の類族がこの地に来住し、部族名の狭竹を郷名としたと伝えられる。当郷は久慈郡家から大田郷に至る交通上の要地にあり、前九年・後三年の両役には源氏の主要な兵站路となった。以来当郷は源氏相伝の所領とされ、保延年間には新羅三郎義光の子義業が当郷に来住し、その子昌義の代から当郷に土着して佐竹氏と称した。【出典

# 佐竹義敦

# 秋田新田藩 ・ 久保田(秋田)藩

■ 佐武(さたけ) 

【2021/11/02:新載】

# 「佐竹」から転訛した名字か。大阪府と和歌山県に多く見られ、特に和歌山市に多く見られる。【出典

都道府県毎の名字の特徴 名字の様々な区分
難読名字 難読地名・珍地名
地名と災害 名字の博物館
名字と地名・都道府県編 民俗学の広場内の検索

■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。詳細】 

統計表示