佐竹家の人々
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■ 「佐竹」の名字の由来

■ 佐竹義敦(よしあつ): 出羽国久保田藩主。洋風画法を学び、秋田蘭画を生み出した。号を「曙山(しょざん)」と言った。義敦は1748年に、七代藩主の義明の嫡子として生まれた。

■ 佐竹義重(さたけよししげ): 1547ー1612年。常陸国戦国大名。周囲を北条氏伊達氏に囲まれて、上杉謙信らと与して勢力を拡大して、常陸国を統一した。人取橋の戦いでは伊達政宗と戦ったが撤退した。【出典

■ 佐竹義宣(さたけよしのぶ): 1570−1633年。佐竹義重の子。佐竹氏伊達氏と争う中、豊臣秀吉小田原攻めに参じて豊臣秀吉に従って、常陸国を統一した。石田三成に接近して、関ヶ原の合戦では中立の姿勢をとったため、戦後は徳川家康によって、常陸国54万石から、出羽国秋田(秋田藩)20万石に転じた。【出典

■ 佐竹義和(さたけよしまさ): 1775−1815年。久保田藩(秋田藩)の九代藩主。1789年に、藩校の明徳館を設立。春慶塗、川連漆器、白岩焼などの工芸品の生産を奨励し、新田開発や防砂林の造成などを行った。ロシアの貿易会社に択捉島が襲撃されると、幕命で蝦夷地警備を行った。【出典


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