石田三成 | |
【参考資料・文献】 | 【利用上の注意】 |
名字の由来のTop | 地名の由来のTop |
名字と地名のMenu | 歴史的人物のTop |
スポンサーリンク |
スポンサーリンク |
■ 石田三成(いしだみつなり)
# 「石田」の名字
# 石田三成は近江国坂田郡石田村の地侍の石田正継の次男。1595年に近江国の佐和山城主19万4千石。諸国の検地や、九州平定、小田原攻め、朝鮮の役での兵站や占領地の処理に力を発揮した。関ヶ原の戦いでは敗走し、伊吹山の山中で田中吉政の兵にとらわれ、京都六条河原で処刑された。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
# 石田三成(いしだみつなり)【出典】
・ 1560−160年。享年41歳(刑死)。
・ 出身地: 近江国。
・ 肩書き: 武将。
・ 家族: 父:石田正継
・ 家紋: 大一大万大吉紋。
・ 近江国の土豪の次男として生まれた石田三成は、羽柴秀吉が長浜城主になった1574年頃から仕え始めた。中国攻めや賤ヶ岳の戦いなどに従軍し、秀吉からの信頼が増していった。戦いよりも内政に長じ、朝鮮出兵でも自ら出陣せず、兵站全般を総括した。その後、出陣した将たちと対立し、徳川家康に従う武将を増やす結果になった。関ヶ原の合戦では毛利輝元を総帥としたが、現場経験の薄い三成は、軍議を紛糾させた。その結果、開戦後に諸将の裏切りを招いて敗戦の上捕らえられて、家康の命で京の六条河原で斬首された。
【Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。