毛利家の人々
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■ 毛利敬親(もうりたかちか)【出典

・ 1819−1871年。享年53歳(病死)。

・ 出身地: 江戸。

・ 肩書き: 大名。

・ 家紋: 毛利三つ星紋。

・ 毛利敬親は、19歳で長州藩の十三代藩主になった。当時の長州藩は多大な借金をしていたため、敬親は1838年から村田清風を重用して、藩政改革を行った。質素倹約をすすめ、蝋の専売制をやめて商業の自由化と引き換えに商人に課税した。ペリー来航後には、積極的に江戸や相模国の防衛にあたり、幕府には藩論として攘夷を訴えた。いかし、1863年に、長州藩は外国船打ち払いの報復でアメリカとフランスから攻撃を受けた。さらに、公武合体派から、京から締め出され、翌年の池田屋事件では、多くの長州藩士が新撰組に殺害された。これに対して、三家老が京に出陣して、禁門の変をおこしたため、長州藩は朝敵になった。第一次長州征伐後に、敬親は三家老を切腹させ、自らも謹慎処分になった。しかし、1865年に高杉晋作らが奇兵隊を組織し、大規模な軍事改革を行った。薩長同盟も功を成し、第二次長州征伐では勝利した。その結果、敬親は朝廷から討幕の密勅を受けて、王政復古を実現させた。

■ 毛利輝元(もうりてるもと)出典

・ 1553ー1625年。享年73歳(病死)。

・ 出身地: 安芸国(広島県)

・ 肩書き: 武将

・ 家族: 父:毛利隆元

・ 家紋: 毛利三つ星紋

・ 毛利隆元の長男。輝元は、父の急死をうけて11歳で家督を継いだが、祖父の毛利元就や叔父の吉川元春と小早川隆景らに支えられて、領土を治めた。当初は織田信長に京を追われた足利義昭を保護し、信長と対立していたが、本能寺の変を受けて羽柴秀吉と和睦して、豊臣秀吉に与した。豊臣政権の五大老の一人をつとめた。関ヶ原の合戦では西軍の総大将を努めたが、吉川元春の後継者の広家が東軍に通じて、戦闘を回避したため輝元は退却した。輝元は大将の責任として領地を没収されたが、吉川広家が自分が得た周防国長門国を輝元に譲渡したいとしたため、毛利家は30万石で存続した。

■ 毛利勝永(もうりかつなが)

・ 1577−1615年。豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵で功をあげたが、関ヶ原の合戦では西軍に属して改易になった。大坂の陣では、豊臣方に属した。大坂夏の陣(大坂の陣)では、徳川方を撃破して、家康の本陣に迫ったが、真田幸村が討ち死にしたため撤退した。その後、淀殿豊臣秀頼の介錯をして自害した。【出典

■ 毛利秀元(もうりひでもと)

・ 1579−1650。毛利元就の孫。豊臣秀吉に従い、文禄・慶長の役では、朝鮮に参陣した。関ヶ原の合戦では戦線を離脱。江戸時代には長門国長府藩の初代藩主となって、晩年は三代将軍徳川家光御伽衆(おとぎしゅう・側近)になった。【出典

■ 毛利元就(もうりもとなり)出典

・ 1497ー1571年。享年75歳(病死)。

・ 出身地: 安芸国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 子:毛利隆元・吉川元春小早川隆景

・ 家紋: 毛利三つ星紋

・ 毛利元就は、戦国時代最高の知将と言われた。中国地方の覇者であった。安芸国の国人領主だった弘元の次男として生まれ、少輔次郎と呼ばれた。兄の興元と、その子の幸松丸(こうまつまる)が相次いで死去したため、27歳で家督を継いで、郡山城(広島県)城主になった。当初は、出雲国尼子氏周防国大内氏にはさまれ、いつ侵攻をうけるかわからない立場だった。元就は、一時は大内氏の配下として尼子氏と戦った。まず、1544年に、強力な水軍をもった備後国小早川氏に三男の隆景を養子に出して、次いで1547年に妻の実家である吉川氏に次男の元春を養子に送り込んだ。こうして勢力を拡大した。1551年に、元就が従っていた大内義隆が、家臣の陶晴賢に討たれる事件がおきた。これを大寧寺の変という。晴賢は元就と与して大内領を支配しようとしたが、意見が合わずに対立した。その後、元就は晴賢を攻め、瀬戸内海の厳島の戦いで破った。その後、尼子義久を降伏させて、因幡国から長門国に至る中国十カ国を平定した。1557年には長男の隆元に家督を譲った。隆元が急死すると、その長男の毛利輝元の後見人になって家督を継がせた。


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