「か」行の人々
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■ 葛西晴信(かさいはるのぶ): 1534−1597?。陸奥国戦国大名葛西家の十七代当主。伊達氏と協力して、何度も大崎氏と戦った。そのために、豊臣秀吉小田原攻めに参戦することができず、所領を没収されて、一族は滅亡した。【出典

■ 梶原景時(かじわらかげとき): ?ー1200年。鎌倉幕府の侍所所司、厩別当。教養があって和歌を好んだ。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことで重用されたが、源義経と対立した。頼朝の死後、御家人達によって幕府から追放されて討たれた。【出典

■ 加藤景正(かとうかげまさ): 陶工。通称を四郎左衛門といい、藤四郎ともいう。1223年に道元とともに宋に渡って、製陶法を学んだ。帰国後、尾張国瀬戸に開窯(かいよう)したとされ、瀬戸焼の開祖と言われる。【出典

■ 金森長近(かなもりながちか): 美濃国の出で、早くから織田信長に仕えた。越前一向一揆攻めでの功で大野郡を賜って大野城に拠った。豊臣秀吉の時代には飛騨一国を賜った。徳川家康の時代には初代の高山藩主となった。【出典

■ 金森頼錦(かなもりかよりかね): 飛騨国高山の街を作った大名茶人の金森長近の子孫は、森林資源を狙った幕府に、出羽国上山に転封されたが、5年後には高山に近い郡上に戻され、引っ越しで財政が苦しいのにもかかわらず、金森頼綿(よりかね)は風雅な生活をおくって財政は困窮した。困った、藩の首脳は寺社奉行で姻戚の駿河国相良藩主の本多忠央(ただなか)を通じて、勘定奉行の大橋親義と相談して、徴税強化のために辣腕のものを派遣してもらったが、農民一揆が勃発したので、美濃郡代の青木安清の手を借りて鎮圧した。農民達は、江戸で駕籠訴や箱訴を繰り返したが、要求は聞き入れられず、そのために一揆の勢いは増して、宝暦8年(1758年)に老中首座の堀田正亮が吟味して、金森頼綿だけでなく、本多忠央も改易となり、処分が幕閣にも及ぶ大事件になった。【出典

■ 懐良親王(かねよししんのう): 1330?ー1383年。後醍醐天皇の皇子。後醍醐天皇により征西大将軍に任命されて九州に上陸。九州に南朝勢力を築いたが、九州探題に任ぜられた今川了俊大宰府を追われた。【出典

■ 狩野永徳(かのうえいとく): 1543−1590年。狩野派の棟梁として、織田信長豊臣秀吉に仕えた絵師。内裏の障壁画や東福寺の天井図などを手がけた。【出典

■ 亀井茲矩(かめいこれのり): 1557−1612年。尼子氏の家臣。尼子勝久とともに、織田信長に従って、羽柴秀吉の家臣になった。秀吉の死後は、徳川家康に従って、関ヶ原の合戦では東軍に属し、江戸時代には鹿野藩の初代藩主。【出典

■ 蒲生氏郷(がもううじさと): 1556−1595年。近江国蒲生郡の出。人質として織田信長のもとに送られたが、信長に見込まれて信長の娘を娶った。信長の死後は羽柴秀吉に従った。茶道に精通して、利休七哲(千利休の高弟)の一人とされた。【出典

■ 鴨長明(かものちょうめい): 1155?−1216年。歌人で随筆家。賀茂御祖神社(下鴨神社)の神職の家に生まれたが神職の地位を得られず、50歳で出家して隠棲した。著書には「方丈記」が有名。【出典

■ 河村瑞賢(かわむらずいけん): 1618−1699年。江戸で材木屋を営んで、江戸幕府の公共事業に携わった。1671年から翌年に江戸に入る新たな航路を開いて治水を行って、海運の振興に携わった。【出典

■ 菊地武光(きくちたけみつ): ?ー1373年。肥後国の武士で菊池武時の子。1348年に、征西大将軍の懐良親王を肥後国に迎え、九州各地を転戦した。大宰府まで進軍したが、今川了俊に敗れた。【出典

■ 喜撰(きせん): 僧で歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。【出典

■ 北畠親房(きたばたけちかふさ): 1293−1354年。後醍醐天皇後村上天皇時代の南朝の重臣。足利尊氏の謀反後は南朝勢力拡大のため、関東でも指揮を執った。【出典

■ 北畠具教(きたばたけとものり): 1528−1576年。伊勢国の武将で、織田信長が伊勢国に侵攻した際には、攻防の末に降伏した。出家後の1576年に、養嗣子であった織田信雄の命で、子息や家臣らとともに殺害された。【出典

■ 吉川経家(きっかわつねいえ): 1547−1581年。毛利氏の家臣。羽柴秀吉の中国討伐の際に、鳥取城で四ヶ月間籠城した。兵の助命を条件に、森下道誉・中村春続とともに自害した。【出典

■ 吉川広家(きっかわひろいえ): 1561−1602年。吉川元春の三男で毛利氏の家臣。毛利輝元の従弟。父と長兄が他界したため家督を継いで、14万石の領主になった。関ヶ原の合戦では、東軍に勝機があると確信したが、毛利輝元が西軍の総大将になったため、やむを得ず毛利家存続のために輝元に内密で徳川家康と通じて毛利氏の動きを封じた。その結果、毛利家の存続は果たせたが、毛利家からは恨まれた。【出典

■ 木下家定(きのしたいえさだ): 1543−1608年。北政所の兄で小早川秀秋の実父。豊臣秀吉に仕えて転戦し、豊臣姓を賜った。関ヶ原の合戦では、中立の立場で妹の高台院(北政所)を守った。江戸時代には備中国足守藩の初代藩主。【出典

■ 紀貫之(きのつらゆき): ?ー945年。歌人。三十六歌仙の一人。従兄弟の紀友則らと勅撰和歌集の規範となった。「古今和歌集」を編纂して、日本最高の歌論という。「土佐日記」の著者として有名。【出典

■ 吉備真備(きびのまきび): 693?ー775年。学者で政治家。717〜735年の間、唐に留学した。橘諸兄政権に重用された。藤原仲麻呂の進出で冷遇されるが、仲麻呂の反乱を鎮圧して、右大臣になった。【出典

■ 清原夏野(きよはらのなつの): 782−837年。公家で政治家。舎人親王の孫で、小倉王の子。清原姓を賜って臣籍降下した。桓武天皇から仁明天皇まで仕えて右大臣になった。【出典

■ 九鬼久隆(くきひさたか)
# 戦国時代に、織田軍団の水軍を率いて活躍した九鬼氏は、関ヶ原の合戦で父の嘉隆が西軍に、子の守隆は東軍に与して、鳥羽5万5000石を安堵した。五男の久隆が嗣いだが、三男の隆季と争って、寛永10年(1633年)に摂津国の三田と丹波国の綾部という山間ふたつに分割されて、海のない山間部に移された。三田の九鬼家ではいつか海上に覇を唱えるべく、山中の池で水軍の訓練をし続けていた。最後の藩主の隆義は神戸の不動産王になって、貿易会社を経営したり、神戸女学院の創設を支援して、家臣からは吉田茂の側近になった白州次郎がでるなど、水軍の子孫にふさわしい国際的な活躍をした。【出典
# 豊後国森藩久留島家は、村上水軍の一員だが、山中に移封された。宝暦6年に、参勤交代のときに周防沖で遭難した。【出典

■ 九鬼嘉隆(くきよしたか): 1542−1600年。志摩国の海賊大名。織田信長の命で、鉄で装甲した鉄甲船で船団をつくった。石山本願寺への救援物資を運ぶ毛利水軍600隻の船団を撃破した。本能寺の変ののちには豊臣秀吉に従った。【出典

■ 公暁(くぎょう): 鎌倉幕府の二代将軍の源頼家の次男。出家して公暁を称した。源実朝の養子になったが、頼家暗殺が実朝の差し金と信じて、実朝を暗殺した。三浦義村を頼ったが、義村に討たれた。【出典

■ 草壁皇子(くさかべのみこ): 662−689年。天武天皇の皇子。母は後の持統天皇。皇位を争った大津皇子の自害後、皇太子のまま死去した。妃は元明天皇になって、子は元正天皇文武天皇になった。【出典

■ 九条兼実(くじょうかねざね): 1149−1207年。五摂家の一つ。九条家の祖。摂政関白太政大臣を歴任した。源頼朝との協力関係を築いて、頼朝が征夷大将軍に任ぜられるように助力したが、朝廷内で孤立し、また頼朝とも対立して失脚した。【出典

■ 朽木元綱(くつきもとつな): 1549−1632年。近江国豪族。朽木晴綱の子。父の戦死によって2歳で家督を継いだ。朝倉攻めからの織田信長撤退を助け、以後は織田家に仕えた。信長の死後は豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の合戦では、西軍に属し大谷吉継に従ったが、小早川秀秋の裏切りに呼応した。しかし、戦後は減封された。【出典

■ 栗山大膳(くりやまだいぜん): 1591−1652年。福岡藩家老黒田家の初代藩主の黒田長政の忠臣の栗山利安の子。二代藩主の黒田忠之の補佐を任されたが、忠之は大膳の戒めを聞かず、豪華大型船の建造や、新たな足軽部隊の設立など、幕府に咎められるような政策をとった。大膳は藩の取りつぶしを恐れて、あえて忠之に謀反の疑いありと幕府に訴えた。しかし、忠之の謀反は認められなかった。大膳自身も、忠之の改心を願って、藩の存続ための行動と述べて、忠義を感嘆された。大膳は盛岡藩預かりとなったものの厚遇されたという。これを黒田騒動という。【出典

■ 玄掘覆欧鵑椶Α: 法相宗(ほっそうしゅう)の僧。717〜735年に唐に留学した。橘諸兄の政権に参加した。大仏の造営などの護国仏教の確立に貢献した。藤原仲麻呂によって筑紫国に左遷されて、当地で死亡した。【出典

■ 香宗我部親泰(こうそかべちかやす): 1543−1593年。長宗我部氏から養子に出され、安芸城城主になった。外交に秀でて、兄の長宗我部元親のもとで織田信長徳川家康と通じて四国平定を目指した。文禄の役の際に、長門国で急死した。【出典

■ 河野通直(こうのみちなお): 1500−1572年。伊予国戦国大名。1540年に室町幕府の御相伴衆に加わった。後継者問題で一族の通政(みちまさ)に家督を譲ったが、通政の死後は再び当主に返り咲いた。【出典

■ 高師直(こうのもろなお): ?ー1351年。武将。室町幕府の創設の功によって執事に任ぜられ、幕政に権力をふるったが、足利直義と対立して、排斥。後に南朝に下った直義と戦ったが、敗れて殺された。【出典

■ 小西行長(こにしゆきなが): 1558−1600。堺の豪商である小西隆佐(りゅうさ)の子。宇喜多氏に仕えたのちに、豊臣秀吉の家臣になった。舟奉行として水軍を率い、九州攻めなどで功を重ねた。肥後国で14万石を領したが隣国の加藤清正と対立した。文禄・慶長の役での先鋒役を争った末、行長が先鋒になって奮戦した。キリシタンであり、小豆島で1万石を賜ったとき、信仰と引き換えに領地を捨てた高山右近をかくまった時期もあった。関ヶ原の合戦では西軍に属して敗れ斬首された。遺体はキリスト教式で葬られた。【出典

■ 小堀遠州(こぼりえんしゅう): 1579ー1647年。本名は小堀政一。大名で、茶人、建築家、作庭家。古田織部に師事し、遠州流を開いた。また、駿河城の修復や大阪城内の茶室などの普請に携わった。【出典
・ 小堀は近江国坂田郡小堀(滋賀県長浜市)。浅井氏に従い、その後、豊臣秀吉豊臣秀長に仕え、関ヶ原の戦いの後、備中松山1万5千石。小堀遠州は近江国小室1万2千石に転じ、駿府城などの作事奉行をつとめ、茶道の遠州流を創設した。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】 

■ 伊治公呰麿(これはりのきみあざまろ): 蝦夷の出身で奈良時代の末に宮城県栗原地方にあった上治郡の大領に任ぜられた。【本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 青空文庫】
・ 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ): 蝦夷の指導者で、当初は朝廷の役人だったが、780年に陸奥国の按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)を殺害して、多賀城を焼き払った。これを伊治呰麻呂の乱という。【出典


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