「か」行の人々
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■ 梶原景時(かじわらかげとき): ?ー1200年。鎌倉幕府の侍所所司、厩別当。教養があって和歌を好んだ。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことで重用されたが、源義経と対立した。頼朝の死後、御家人達によって幕府から追放されて討たれた。【出典

■ 金森長近(かなもりながちか): 美濃国の出で、早くから織田信長に仕えた。越前一向一揆攻めでの功で大野郡を賜って大野城に拠った。豊臣秀吉の時代には飛騨一国を賜った。徳川家康の時代には初代の高山藩主となった。【出典

■ 金森頼錦(かなもりかよりかね): 飛騨国高山の街を作った大名茶人の金森長近の子孫は、森林資源を狙った幕府に、出羽国上山に転封されたが、5年後には高山に近い郡上に戻され、引っ越しで財政が苦しいのにもかかわらず、金森頼綿(よりかね)は風雅な生活をおくって財政は困窮した。困った、藩の首脳は寺社奉行で姻戚の駿河国相良藩主の本多忠央(ただなか)を通じて、勘定奉行の大橋親義と相談して、徴税強化のために辣腕のものを派遣してもらったが、農民一揆が勃発したので、美濃郡代の青木安清の手を借りて鎮圧した。農民達は、江戸で駕籠訴や箱訴を繰り返したが、要求は聞き入れられず、そのために一揆の勢いは増して、宝暦8年(1758年)に老中首座の堀田正亮が吟味して、金森頼綿だけでなく、本多忠央も改易となり、処分が幕閣にも及ぶ大事件になった。【出典

■ 河村瑞賢(かわむらずいけん): 1618−1699年。江戸で材木屋を営んで、江戸幕府の公共事業に携わった。1671年から翌年に江戸に入る新たな航路を開いて治水を行って、海運の振興に携わった。【出典

■ 吉川広家(きっかわひろいえ): 1561−1602年。吉川元春の三男で毛利氏の家臣。毛利輝元の従弟。父と長兄が他界したため家督を継いで、14万石の領主になった。関ヶ原の合戦では、東軍に勝機があると確信したが、毛利輝元が西軍の総大将になったため、やむを得ず毛利家存続のために輝元に内密で徳川家康と通じて毛利氏の動きを封じた。その結果、毛利家の存続は果たせたが、毛利家からは恨まれた。【出典

■ 吉備真備(きびのまきび): 693?ー775年。学者で政治家。717〜735年の間、唐に留学した。橘諸兄政権に重用された。藤原仲麻呂の進出で冷遇されるが、仲麻呂の反乱を鎮圧して、右大臣になった。【出典

■ 九鬼久隆(くきひさたか)
# 戦国時代に、織田軍団の水軍を率いて活躍した九鬼氏は、関ヶ原の合戦で父の嘉隆が西軍に、子の守隆は東軍に与して、鳥羽5万5000石を安堵した。五男の久隆が嗣いだが、三男の隆季と争って、寛永10年(1633年)に摂津国の三田と丹波国の綾部という山間ふたつに分割されて、海のない山間部に移された。三田の九鬼家ではいつか海上に覇を唱えるべく、山中の池で水軍の訓練をし続けていた。最後の藩主の隆義は神戸の不動産王になって、貿易会社を経営したり、神戸女学院の創設を支援して、家臣からは吉田茂の側近になった白州次郎がでるなど、水軍の子孫にふさわしい国際的な活躍をした。【出典
# 豊後国森藩の久留島家は、村上水軍の一員だが、山中に移封された。宝暦6年に、参勤交代のときに周防沖で遭難した。【出典

■ 小西行長(こにしゆきなが): 1558−1600。堺の豪商である小西隆佐(りゅうさ)の子。宇喜多氏に仕えたのちに、豊臣秀吉の家臣になった。舟奉行として水軍を率い、九州攻めなどで功を重ねた。肥後国で14万石を領したが隣国の加藤清正と対立した。文禄・慶長の役での先鋒役を争った末、行長が先鋒になって奮戦した。キリシタンであり、小豆島で1万石を賜ったとき、信仰と引き換えに領地を捨てた高山右近をかくまった時期もあった。関ヶ原の合戦では西軍に属して敗れ斬首された。遺体はキリスト教式で葬られた。【出典

■ 小堀遠州(こぼりえんしゅう): 1579ー1647年。本名は小堀政一。大名で、茶人、建築家、作庭家。古田織部に師事し、遠州流を開いた。また、駿河城の修復や大阪城内の茶室などの普請に携わった。【出典
・ 小堀は近江国坂田郡小堀(滋賀県長浜市)。浅井氏に従い、その後、豊臣秀吉、豊臣秀長に仕え、関ヶ原の戦いの後、備中松山1万5千石。小堀遠州は近江国小室1万2千石に転じ、駿府城などの作事奉行をつとめ、茶道の遠州流を創設した。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】  


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