福岡藩
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■ 福岡藩(ふくおかはん): 福岡県福岡市

・ 「福岡」の地名

# 黒田家47万3千石・外様

# 黒田筑前守

# 豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛如水に始まる。筑前国早良(さわら)郡(福岡市)52万3000石で明治維新を向かえる。

# 黒田長政

# 幕末の福岡藩主は薩摩藩からの養子で、兄が島津斉彬、姉が十一代将軍徳川家斉の正室。幕末には尊皇と佐幕を行ったり来たりと揺れ動き、戊辰戦争では2300名も出兵させた。それによって財政難となった藩では偽金作りをおこなった。1870年には新政府の調査がはいり、多くの処分者を出したうえに領地を返上した。その結果、福岡藩は版籍奉還前に版籍を取り上げられた唯一の藩となった。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

# 福岡藩士: 麻生家 ・ 貝原家 ・ 蒲池家 ・ 来島家 ・ 毛屋家 ・ 小寺家 ・ 左座家 ・ 竹森家 ・ 立花家 ・ 野村家 ・ 母里家 ・ 真島家 ・ 横田家 ・ 吉田家

# 「軍師官兵衛」に学ぶ歴史豆知識  

# 黒田騒動: 関ヶ原の合戦で東軍の勝利を決定づけたのは、小早川秀秋の寝返りと、黒田長政の外交力で、将軍の徳川家光の御台所は長政の娘が有力ともいわれた。長政は、嫡子の忠之に代えて次男への継承も考えたが、家老栗山大膳に諫言されて、栗山に忠之を後見することを命じた。しかし、忠之は栗山を嫌って、倉八十太夫など新参の能吏を重用して重臣の多くを整理したので、栗山大膳が「忠之に逆心あり」と幕府に訴えた。幕府は、いったん領地を召し上げ、長政の功績に免じて改めて旧領を与え、栗山は南部藩にお預け、倉八は高野山に追放した。【出典

# 福岡藩(ふくおかはん): 筑前国。福岡城。黒田家。外様大名。52万3000石。控間:大広間。格:国主。位階:従四位下。上屋敷:千代田区霞が関。天正15年の豊臣秀吉による九州攻めののち、小早川隆景が筑前国一国と筑後国の二郡、肥前国の二郡など30万石を賜って、筑前国名島に拠った。関ヶ原の合戦で、隆景の養子の秀秋は東軍について備前国に転封になって、代わりに豊前国中津の黒田長政が筑前国一国を賜って福岡に藩庁をおいた。【出典

■ シーボルト台風による被害


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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