島津藩
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■ 薩摩藩(さつまはん): 鹿児島県鹿児島市: 「鹿児島」の地名の由来

・ 「薩摩」の地名

・ 島津家77万石・外様。

・ 島津薩摩守

・ 島津家久: 関ヶ原の合戦後、父の義弘のあとを受けて薩摩藩主になった。

・ 島津重豪

・ 文政年間(1818年〜1829年)の薩摩藩の赤字は500万両にもおよんだ。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

# 薩摩藩
・ 表高77万石、実高87万石。
・ 人口(嘉永5年): 62万5365人。
・ 家臣団(宝暦6年): 2万3982人。
【歴史人 2018.08.No92 江戸三百藩「仕事と暮らし」】 

# 薩摩藩士: 赤塚家 ・ 綾部家 ・ 有川家 ・ 有村家 ・ 家村家 ・ 猪鹿倉家 ・ 伊作家 ・ 伊地知家 ・ 伊集院家 ・ 市来家 ・ 市来崎家 ・ 稲富家 ・ 入来院家 ・ 岩下家 ・ 大河平家 ・ 大寺家 ・ 柏田家 ・ 樺山家 ・ 鎌田家 ・ 喜入家 ・ 貴島家 ・ 肝付家 ・ 黒田家 ・ 祁答院家 ・ 五代家 ・ 小松家 ・ 税所家 ・ 鮫島家 ・ 志岐家 ・ 敷根家 ・ 柴山家 ・ 島津家 ・ 調所家 ・ 諏訪家 ・ 園田家 ・ 高崎家 ・ 財部家 ・ 種子島家 ・ 東郷家 ・ 床次家 ・ 中神家 ・ 長倉家 ・ 奈良原家 ・ 南郷家 ・ 新納家 ・ 二階堂家 ・ 仁礼家 ・ 野津家 ・ 橋元家 ・ 肥後家 ・ 菱刈家 ・ 日高家 ・ 北郷(ほんごう)家 ・ 本田家 ・ 前田家 ・ 益満家 ・ 町田家 ・ 宮之原家 ・ 村田家 ・ 恵家 ・ 餅原家 ・ 吉井家 ・ 山路家 ・ 山田家 ・ 吉田家

# 近思録崩れ: 「島津に暗君なし」というように、薩摩藩の島津家では、戦国時代から幕末まで名君を出し続けた。しかし、逆に父子、兄弟などの権力闘争も熾烈を極めた。歴代藩主のなかで有名なのは、戦国時代の島津義弘と幕末の島津斉彬だが、一番の重要人物は島津重豪で、宝暦5年(1755年)に藩主になり、天明7年(1787年)に娘が十一代将軍の徳川家斉の御台所になったのを機に隠居したが、天保4年(1833年)の死去まで実権を握り続けた。娘は将軍継嗣になる前の一橋家斉と婚約したが、結果的には重豪は将軍の義父になり、「高輪の下馬将軍」と呼ばれて御三家並に扱われた。
※ たしか、高輪には島津藩の中屋敷か下屋敷があったからだね。
しかも、蘭学を好んで数々の先進的な試みをおこなったりしたので、財政赤字は増えたが、立場を利用して、密貿易まがいの琉球との交易や、借金踏み倒しまでおこなった。そこで、財政の健全化を主張する一派が、朱子学の「近思録(きんしろく)」の勉強会を称して、藩主の島津斉宣を動かそうとして謀議をめぐらした。重豪は幕府の支持を得た上で、一味で家老の頴娃久喬(えいひさぶえ)を江戸に呼び出して、酒を呑ませて彼らの計画を聞き出して、13名を切腹させて、斉宣も息子の斉興に家督を譲らされた。これを「近思録崩れ」という。【出典

# 薩摩藩(さつまはん): 薩摩国。鹿児島城。島津家。外様大名。72万8000石。控間:大広間。格:国主。位階:従三位。上屋敷:港区芝。戦国時代に本国の薩摩国のほかに、大隅国、日向国を平定した島津貴久・義久は、九州の統一を図ろうとしたところ、天正15年に豊臣秀吉の九州攻めに降伏して、本領のみを安堵された。その後、関ヶ原の合戦で徳川家康に降伏して、60万9000石を安堵され、のちには77万石へ。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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