島津家
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■ 島津家(しまづけ): 「島津」の名字の由来 

【島津】【出典

# 鹿児島県の島津氏: 薩摩国戦国大名。祖の島津忠久は文治元年(1185年)に伊勢国須可荘(三重県)の地頭と島津荘の下司を得、翌年には信濃国でも地頭職を得た。鎌倉時代には大隅国守護に任ぜられ、後に日向国の守護も務めた。後に一度失脚したがすぐに薩摩国守護職となった。さらに、信濃国越前国伊賀国隠岐国などの所領も得たが、建治元年(1275年)に鎌倉幕府の命にて薩摩国下向した。南北朝時代には北朝に属し、島津貞久が三男の師久に薩摩国の守護を、四男の氏久に大隅国の守護を譲り、氏久の子孫は奥州島津家として嫡流となる。また師久の子孫は総州島津家を称した。

・ 佐土原島津家: 島津貴久の子の家久が日向国佐土原(宮崎県宮崎市佐土原町)を領して佐土原島津家を興した。子の島津豊久関ヶ原の戦いで戦死したため、徳川家康によって一旦所領は没収されたが、後に貴久の甥の以久が3万石で再興した。

・ 垂水島津家: 奥州家の島津友久は相州島津家を称し、相州島津家から本家を継いだ貴久の弟の忠将は戦死したが、その子の以久が慶長4年(1599年)に大隅国垂水郷(鹿児島県垂水市)に住んで垂水家となった。以久が佐土原島津家を継いだので、以久の孫の久信が垂水家を継いだ。

・ 宮之城島津家: 相州島津家の忠良の三男の直久を祖とし、薩摩国薩摩郡宮之城郷(鹿児島県垂水市)に移り宮之城島津家となった。江戸時代は1万5700石。

・ 日置島津家: 島津貴久の三男の蔵久が天正8年(1580年)に薩摩国祁答院で1万7300石を領して宮之城に住んだ。後に三代の常久が薩摩国日置郡日置郷(鹿児島県日置市)に住んで日置島津家となった。

・ 永吉島津家: 島津貴久の四男の家久が日向国佐土原を領したのが祖で、関ヶ原の戦い後一時佐土原は没収されたが、慶長17年(1612年)に薩摩国日置郡永吉郷(鹿児島県日置市)を賜り永吉島津家となった。

・ 総州島津家: 島津貞久の三男の師久を祖とし、本家の奥州家との争いに敗れて没落し島津守久は肥前国に逃れた。

# 島津家では要所に外城をおいた。その外城に由来する名字が、伊集院、入来院など。本家の二男の子孫にあたる家を「一門家(いちもんけ)」、三男以下の子孫を「一所持家(いっしょもちけ)」といった。

# 島津家: 現在の当主である第33代の島津忠裕は西郷隆盛末裔にもあたる。【名字でたどる日本の名家 森岡浩 日本実業出版社】

# 島津家の分家
・ 一門家: 本家の次男の子孫。
・ 一所持家(いっしょもちけ): 本家の三男以下の子孫。
【地名でわかるオモシロ日本史 武光誠】 

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