「島津」の名字の由来
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■ 島津(しまづ)

【2022/08/30:改編】

# 872位

# 島津氏は源氏の出を称しているが、学説的には秦氏流惟宗氏の出という説が有力とのこと。室町時代に実母が源頼朝の隠し子を連れて惟宗広言と結婚したという話がでて、島津家源氏の出と言われるようになったらしい。

# 代表家紋

# 島津氏: 丸に十字紋。庶流には「伊作(いざく)」「伊集院」「樺山(かばやま)」「川上」「町田」「和泉」など。【出典

# 山形県:287位、山梨県:485位、新潟県:500位、広島県:558位、静岡県:566位など。

※ 山形県内でこの名字にお目にかかったことないが、高畠町米沢市川西町にまとまってみられるようです。たぶん、長野県の島津家が移動してきたものかと。

# 源氏説: 島津氏は、源頼朝により始祖である忠久が日向国諸県郡島津庄を与えられたことによる。

# 秦氏流惟宗氏説: 島津氏は、秦氏の子孫で惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、近衛家日向国島津荘(宮崎県都城市)の荘官として下向したのに由来する。
・ 島津家の祖の忠久は、近衛領の島津荘の下司を務めた惟宗広言の子。

# 九州を代表する氏族で鎌倉時代以降、薩摩国を中心に栄えた。

# 島津家は鎌倉時代に信濃国でも地頭を務める他、越前国伊賀国讃岐国など各地に所領を持った。

# 島津から派生した名字には、「伊作(いざく)」「伊集院」「樺山(かばやま)」「川上」「町田」「山田」「和泉」「新納」などがある。

# 島津氏からでた名字: 伊佐石坂伊集院、和泉、樺山、給黎(きいれ)、佐多新納(にいろ)、北郷(ほんごう)、町田山田。【名字の謎学 博学こだわり倶楽部編 KAWADE夢文庫】

# 主なルーツ地
・ 日向国諸県郡島津庄(宮崎県)をルーツとする。

# 島津家(しまづけ): 家紋「丸に十文字紋

・ 薩摩国鹿児島郡鹿児島(鹿児島県鹿児島市)を本拠地とした。

・ 初代の忠久は源頼朝庶子とも言われ、薩摩国、大隅国、日向国の守護職を務めた。三代の久経までは鎌倉に住んだが、その後は薩摩国に下向した。関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、戦後は徳川家康に恭順を示し本領を安堵された。慶長14年(1609年)には琉球王国に攻め入り、実質的な支配下とした。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 長野県の島津家 

# 宮崎県の島津家  

# 鹿児島県の島津家

# 歌手の島津亜矢は熊本県熊本市の出身。

# 兵庫県の島津氏: 播磨国揖保郡の国人島津家の初代の忠久の子の忠綱が越前国守護となって下向し、越前島津氏を興した。忠綱の子の忠行が播磨国揖保郡下揖保荘(兵庫県たつの市)の地頭となり播磨島津氏を興した。天文3年(1534年)に赤松氏とともに滅亡した。

■ 島津荘(しまづのしょう): 平安時代から戦国時代にかけて日向国にみられた荘園名で日向国大隅国薩摩国の3国にまたがる。
 次に、当荘と島津氏についてであるが、建久図田帳によれば、「右衛門兵衛尉」すなわち惟宗(島津)忠久がこの広大な荘園の惣地頭として見える。忠久はすでに元暦2年8月17日には源頼朝から島津荘下司職に任じられており、文治2年4月3日までには荘地頭(惣地頭)職に補任されて、さらに建久9年には薩摩・大隅・日向3国の守護になったと思われる(島津家文書/大日古)。忠久の出身は不明な点が多く、頼朝落胤説もあるが、彼は惟宗姓であり、惟宗広言の子であり、近衛家の所従とする説などがある。【出典


# 島津源蔵(島津製作所の創業者)は京都の醒ヶ井魚棚(京都府京都市堀川六条付近)の仏具師の家に生まれた。島津家の祖先は井上氏を称し、播州姫路の黒田官兵衛に仕え、関ヶ原の合戦の頃には明石に住んでいた。関ヶ原の合戦で退却途中の薩摩の島津隊が播磨灘で海難にあったときに助けた功で、島津姓と「丸に十の字家紋」を賜った。

# 島津家

# 島津重豪 ・ 島津貴久 ・ 島津義弘

# 薩摩藩 ・ 佐土原藩

# 国衆(国人)

# 「島・嶋」のつく名字

# 「津」のつく名字

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