播磨国
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# 現在の兵庫県の西南部。

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。播磨国は4位。

#  「ハリ・マ」で「ハリ」は「墾」で土地を開くこと。「マ」は一定の場所や特定地を意味する。「ハリマ」は開墾地のこと。

# 国名は「ハマ」に由来するいう説がある。

# 針間国という表記があり、「はり(かいこんち)」に由来するともいわれる。

# 播磨: もとは、「墾(ハ)られた間(土地)」のこと。【あなたの起源を読み解く 名字の世界 インデックス編集部 イースト新書Q】

■ 印南(いんなみ)の郡: 兵庫県(播磨国)印南郡
・ 穴門の豊浦宮(とゆらのみや)の天の下をお治めになった仲哀天皇が神功皇后と一緒に筑紫の久麻曾(くまそ・熊襲)の国を征伐しようとして下った時に、御舟が印南の浦に泊まった。このとき、青海原は非常によく凪、波風はやわらいで静かだった。だから入浪(いりなみ)の郡と名づけた。【播磨国風土記】

■ 賀古(かこ)の郡(こおり)
・ 天皇が四方を見て、「この土(くに)は丘と原・野と非常に広大で、この丘(日岡)を見ると鹿児(かこ・鹿)のようだ」と言った。そこで「賀古郡」と名づけた。狩りをすると、一匹の鹿がでてきてこの丘に走り登って鳴いた。その声が「比々(ひひ)」と言った。そこで日岡という名がついた。【播磨国風土記】

■ 賀毛(かも)の郡(こおり)
・ 品太天皇の時代に、一つがいの鴨が栖を作って卵を産んだ。だから賀毛の郡と呼んだ。【播磨国風土記】

■ 神崎郡(かんざき): 兵庫県。古代より播磨国に見られた郡名。神埼郡とも書いた。郡名は、当郡を開拓したと伝える大名持命の子建石敷命が、まず高岡里を占め神前山に座したことにちなむといい、福崎の山の端に伊和の神(大名持命)を祀って神前山と称したという。【出典
# 神前(かむさき)の郡(こおり): 播磨国(兵庫県)神前郡
・ 伊和大神の子の建石敷命は山使(やまづかい)の村の神前の山においでになる。そこで、この神がおいでになるによって名とし「神前」とした。【播磨国風土記】

■ 佐用郡(さよ): 兵庫県(旧播磨国)の郡名。昭和30年の佐用(さよう)町成立に伴い、以降は「さよう」と称されることが多く、郡内の自治体では「さようぐん」と使われる。「風土記」に讃容郡と見える。同書によれば、郡名の由来は、伊和大神の妹玉津日女命が生きた鹿の腹を割いて稲をその血に植えたところ、一夜に苗が生えたので取って植え、大神が「あなたは五月夜に植えたのか」といって立ち去ったことから五月夜の郡と名付けたという。【出典
# 讃容(さよ)の郡(こおり): 播磨国(兵庫県)佐用郡
・ 讃容は、大神妹背(夫婦)二柱の神がおのおの先を争って国を占められたとき、妹玉津日女命が鹿を生け捕って寝転がし、その腹を割いてその血に(ひたして)稲をまかれた。すると、一夜の間に苗が生えたので、ただちにこれを取って植えさせた。ここに大神は勅して、「あなたは五月夜(さよ)にうえたのか」と仰せられ、すぐさま他のところに去っていった。だから五月夜(さよ)の郡とよんだ。【播磨国風土記】

■ 飾磨郡(しかま): 古代より播磨国にみられた郡名。古くは飾万・鹿間と書いた。夢前川河口右岸。地名の由来は、「風土記」に大三間津日子命が屋形を造っていたとき、大きな鹿が鳴いたので、「牡鹿鳴くかも」と言ったことによるとある。ほかに「シカ族」に由来するという説もある。飾磨郡は播磨国の中心で国府や国分寺・国分尼寺などもあった。この地域は早くから開かれ、条里制の遺構もはっきり残る。【出典
・ 大三間津彦命がここに屋形を作ったときに、大きな鹿があって鳴いた。そのとき、王はみことのりして「鹿も鳴くことよ」と仰せられ、飾磨の地名となった。【播磨国風土記】
・ 飾磨屯倉: 兵庫県姫路市。奈良時代に播磨国飾磨郡にみられた屯倉名。
# 漢部里(あやべのり): 奈良時代に播磨国飾磨(しかま)郡にみられた里名。地名は讃岐国の漢人がこの地に移住したことによるという。当里は「和名抄」の余部(あまるべ)郷にあたり、現在の姫路市西部の旧余部村付近に比定される。【出典
・ 漢部(あやべ)の里: 讃岐国の漢人(あやびと)らがこの地にやって来て住んだことに由来する。【播磨国風土記】

■ 穴禾(しさは)の郡(こおり): 宍粟市。
・ 伊和大神が国をつくり堅め了えられた後、ここの(山)川・谷・峰を境界として定めるため、御巡幸したときに、大きな鹿が自分の舌を出してくるのに矢田の村で会った。そこで、「矢はその舌にある」とおっしゃった。だから、穴禾(シシアハ)の郡とよんだ。【播磨国風土記】

■ 詫賀(たか)の郡(こおり): 播磨国(兵庫県)多可郡
・ 昔、大人(おおひと)があり、いつもかがんで歩いていた。南の海から北の海に行き、東から巡行なされたとき、この地にやってきて言った。「他の土地(くに)は卑(ひく)いのでいつもかがまり伏して歩いて行ったが、この地は高いので背伸びして歩ける。ああ高いことだ。」と。だから詫賀(たか)の郡という。【播磨国風土記】

■ 美嚢(みなぎ)の郡(こおり)
・ 大兄(おほえ)の伊射報知気命(履中天皇)が国の境を決めたとき、志深(しじみ)の里の許曾(こそ)の社まで来て、勅して「この土地の水流(みながれ)は非常に見事なものだ」と言ったので美嚢の郡という。【播磨国風土記】

# 伊都村: 兵庫県御津町
・ 奈良期に見える村名。播磨国揖保(いいぼ)郡のうち。「風土記」揖保郡十八里の1つ石海(いわみ)里に「伊都村」が見え、地名は神功皇后の三韓遠征の途中、船の水手たちが、今見ているこの地にいつか再び来ることができるかと言ったことによるという。また同書によると、この時船は宇頭川の泊から伊都に渡ろうとしており、当地も船の停泊地であったと思われる。【出典

# 安相(あさこ)の里: 兵庫県朝来(あさご)市関連
・ 品太天皇が但馬から巡ってきたとき、道中の間ずっと御冠(みかげ)をかぶらなかった。だから陰山前(かげやまのさき)と呼ぶ。それによって国造の豊忍別命は名を剥がれた。そのとき、但馬国造の阿胡尼命が申し訳をしたので、これによって罪をゆるした。ただちに、塩代田廿千代(しほしろだはたちしろ・四十町歩)を奉ってようやく、国造の名をたもった。塩代田の耕作者の但馬の朝来の人がこの地にやってきたので、安相(あさこ)の里という。【播磨国風土記】

# 伊和部(いわべ): 兵庫県宍粟市
・ 播磨国の一宮は伊和神社。
・ 宍粟(しさわ)の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだことに由来する。
※ 伊和君: 忌輪(伊和)の製作にたずさわった職業集団の首長だが来歴は不明。
※ 忌輪(伊和): 大きな水甕から形象埴輪までを含む祭祀関係の大型円形土器。
【播磨国風土記】

# 浦上(うらがみ)の里: 兵庫県美方郡香美町香住区浦上?
・ 昔、阿曇連百足らが、先に難波の浦上に住み、のちにこの地に住んだことによる。【播磨国風土記】

# 大国の里: 百姓(おおみたから)の家が多くあったことに由来する。【播磨国風土記】

# 枚方(ひらかた)の里: 
・ 河内国の茨田(まむだ)の郡の枚方の里(大阪府枚方市)の漢人が移り住んだことに由来する。【播磨国風土記】

# 美濃(みの)の里: 兵庫県(播磨国)美嚢郡?
・ 讃岐国の弥濃(みの)郡の人達がやってきて住み込んだことによる。【播磨国風土記】


# 平安時代の後期、播磨国は伊予国とともに最高格付けの国だった。 

# 続日本紀・文武天皇元年(697年): 閏12月7日: 播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予などの国に飢饉がおきたので、食料を与えた。また負税(出拳で借りた稲の返済すべき分)の取り立てをやめさせた。

# 続日本紀・大宝元年(701年): 8月14日: 播磨・淡路・紀伊の三国が「大風と高潮のために、水田や園地が被害をうけました」と言上した。使いを遣わして、農業養蚕の状態を巡察し、人民を慰問させた。また使いを河内・摂津・紀伊の国に遣わし、行在所(あんざいしょ)を造営させ、あらかじめ、水路の行幸に備えさせるために、天皇の乗る船を三十八艘を造らせた。

# 播磨国揖保郡揖保里粒丘

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