島津家の人々 | |
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■ 「島津」の名字の由来。
■ 島津家久(しまづいえひさ): 1547−1587年。島津貴久の四男。1587年には豊臣秀吉が九州攻めで差し向けた先発隊を豊後国の戸次川で向かい討って勝利した。この時に、秀吉側の援軍として参戦した長宗我部元親も討ち取った。しかし、その後は秀吉に敗れて降伏して、その年に病死した。【出典】
■ 島津重豪(しまづしげひで): 1745−1833年。薩摩藩の八代藩主。藩政改革に取り組み、蘭学を奨励した。藩校の造士館や、天文館、医学院を開き、身分を問わずに教育の機会を与えた。晩年には、財政改革に取り組んで、新田開発を奨励した。重豪が寵愛した曽孫の島津斉彬は幕末に活躍した。【出典】
・ 薩摩藩主。薩摩藩の八代藩主の重豪は中国語やオランダ語に堪能だった。妻は御三卿の一つで吉宗の四男の一橋宗尹(むねただ)の娘を妻とした。重豪の三女の茂姫が一橋豊千代に輿入れした。豊千代は後に十一代将軍の徳川家斉となった。
■ 島津豊久(しまづとよひさ): 1570−1600年。島津家久の嫡男。父が豊臣秀吉に降伏した年に死亡したため、家督を継いだ。以後は、秀吉に仕えて叔父の義広と共に奮戦した。関ヶ原の合戦では義広とともに苦境に立たされたが、義広を逃すために討ち死にした。【出典】
■ 島津義久(しまづよしひさ): 1533−1611年。島津貴久の嫡男。父や三人の弟らと転戦し、薩摩国・大隅国・日向国を統一した。その後1578年の耳川の合戦で大友氏を、沖田畷の合戦で龍造寺氏を討って、九州一の勢力をもった。さらに、九州統一を目指したが、大友宗麟が豊臣秀吉に助けを求めたため、秀吉の攻撃を受けて降伏した。【出典】
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