「龍造寺」の名字の由来 | |
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■ 龍造寺(りゅうぞうじ)
【2022/07/22:改編】
# 代表家紋
# 肥前国佐賀郡龍造寺より起こるのは、藤原北家秀郷流の佐藤氏族、藤原姓の高木氏族、藤原兼隆の後裔など出自多説だが戦国期島津・大友と並ぶ大族である。戦国大名の龍造寺隆信の討ち死に後は振るわず、やがて鍋島氏が家督を継いだ。一族の村田・多久・諫早などは鍋島藩家老として存続した。【出典】
# 佐賀県の龍造寺家: 佐賀郡龍造寺(佐賀県佐賀市)をルーツとする。藤原北家の秀郷流。室町時代には少弐家に従ったが、少弐家を滅ぼして勢力を拡大した。【出典】
・ 肥前国の戦国大名。藤原北家秀郷流の佐藤氏の末裔と称すが不詳。在庁官人の高木氏の出である季(秀)家が鎌倉幕府の御家人となり、1186年に肥前国佐嘉郡津東郷龍造寺(佐賀市)の地頭となり、龍造寺氏を称したのが祖。その後、筑前国にも進出し、南北朝時代に家親・家政父子は足利尊氏に従って活躍した。室町時代には少弐氏に属して大内氏と戦った。1545年に少弐氏に反旗を翻したため、家和は筑前を追われたが、弟で水ヶ江城に拠っていた家兼が鍋島氏の助力を得て勢力を回復した。翌年に家兼が死去したため、仏門に入っていた隆信が還俗して家を継ぐと、嫡流の胤栄も死去したため胤栄の未亡人と再婚、龍造寺一門の総帥となった。隆信は1559年には少弐氏を滅ぼして、肥前を支配。その後、筑後・肥後にも進出し、大友氏、島津氏と共に九州を三分する大大名となった。1584年に隆信は島津家久に島原で敗れて自刃、子の政家は病弱のため、鍋島直茂に実権を奪われた。関ヶ原の合戦後、肥後は鍋島氏に与えられ、龍造寺氏はその家臣として佐賀藩士。1602年に高房の死で嫡流は断絶した。一族の諫早氏、多久氏は佐賀藩の家老となった。【出典】
# 龍造寺家
# 龍造寺隆信
# 「寺」のつく名字。
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