徳川吉宗
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■ 徳川吉宗(とくがわ よしむね): 「徳川」の名字の由来

・ 1684年〜1751年。

・ 徳川幕府八代将軍。

・ 「徳川(苗字)」+「吉宗(諱)」
・ 幼名・ 源六
・ 通称: 新之助
・ 別名: 松平頼久・頼方
・ 階位: 従一位太政大臣
・ 院号: 有徳院

・ 身長は六尺を超える偉丈夫(おおおとこ)だったという。母親の「お由利の方」は農民の出。

・ 六代将軍の正室の天英院や幕閣の推挙で将軍となった。その背景には、経済悪化の紀州藩の財政を立て直した業績に期待して、同様に経済悪化の幕府の財政の立て直しを期待したからである。

・ 紀州家の四男にうまれた吉宗は、徳川綱吉に見いだされ越前国丹生の領地を与えられて立藩した。

・ 紀州藩主時代に、「宿直(とのい)の藩士が酒を飲んで遊び歩く」という事件が起きた際も、この藩士が普段から武芸に熱心であると聞き、「人には短所もあれば長所もある」と許したという。その結果、藩士たちは感激して、いっそう武芸に励むようになり、また宿直で酒を飲む者もなくなったという。
※ まぁ、俗に言う「太陽と北風」の太陽政策で、人心掌握能力に優れていたようですね。

■ 徳川吉宗(とくがわよしむね)【出典

・ 1684−1751年。享年68歳(病死)。

・ 出身地: 紀伊国

・ 家族: 父:徳川光貞。

・ 肩書き: 江戸幕府八代将軍。

・ 家紋: 三つ葵紋

・ 徳川御三家の紀州藩主。徳川光貞の四男。七代将軍の家継が8歳で死去し、徳川家康以来の徳川将軍家が断絶したため、吉宗が養子として将軍家を継いだ。吉宗は、綱吉以来続いていた側用人の側近政治をやめて、将軍親政を行い、前代までの文治政治を見直して、武芸奨励に立ち返った。倹約令を出して、吉宗自ら質素倹約につとめた。また、大奥の女性50人を解雇して、大名からは、参勤交代での在府期間を半分にする代わりに、石高一万石について百石を臨時に献上させた。これを「上げ米」という。また、目安箱、町火消し、公事方御定書、小石川療養所などを整備した。これらを享保の改革という。


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