「葵」の家紋の解説
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■ 「葵」の家紋の解説: 「葵」の家紋図

# 葵(あおい)
・ 葵紋は森林などの暗い土地に育成する背の低い「ウマノスズくさ」科の「フタバアオイ」をモチーフとした。京都の賀茂別雷(かもわけいかづち・上賀茂)・賀茂御祖(かもみおや・下賀茂)神社では、「葵を飾り、祭りを行えば賀茂別雷神が降臨する」という神託があったとされ、その祭礼が賀茂祭(葵祭)となった。葵紋は、賀茂社に氏神を祀る賀茂氏ゆかりの家紋で、江戸時代の将軍家の徳川家の家紋でもある。江戸時代には、法令で使用を制限したため、使用している家は少ない。【出典

# 丸に三つ葵(まるにみつあおい)
・ 江戸時代の将軍家の、徳川氏の各藩の家紋で、「三つ葉葵」とも呼ばれた。家康の代から使われたという。はじめの頃は、時代によって紋様が変遷し、早期の紋形の葉脈は33本だったが、時代と共に減少し、やがて13本で定まった。また葉柄も古い物ほど細い。【出典

# 立ち葵紋(たちあおいもん)
・ 三枚の葉を左に二枚、右に一枚に分け、一本の木のように立たせる。葵紋の中でも代表的な紋様。徳川家に仕えた大名の本多家は、先祖が賀茂社の神官と伝えられ、この紋をアレンジした紋を使用している。長野市の善光寺の寺紋。【出典

# 葵紋は、ハート形の葉が特徴的な二葉葵(フタバアオイ)をモチーフとした。約200種類のバリエーションがあるという。徳川家が家紋として使用し、江戸時代には徳川家が独占した。京都の賀茂神社は二葉の葵を神紋として使用している。【出典
・ 徳川葵紋、西条三つ葵紋、水戸六つ葵紋、二葉葵紋、本多立ち葵紋立ち葵紋

# 葵紋(あおいもん): 神話の時代には、天神である別雷命(わけいかづちのみこと)が京都の地を支配していた。その別雷命が天に帰る際に、「自分に逢いたければ、鉾や榊とともに、葵を飾れ」と命じた。そこから、葵は別雷命とその一族を祀る賀茂神社の霊草となり、神紋になった。【出典

・ 徳川家の葵紋は、安祥城の攻撃を前に、酒井親清(ちかきよ)がミズアオイの葉三枚を鼎(かなえ)のように敷き、熨斗鮑、勝栗、昆布を盛って祝詞をあげた。それが、勝利を呼び込んで、信光の命令により酒井氏は三つ葉葵を紋にした。しかし、信光の孫の長親が、酒井氏の武功にあやかろうと、三つ葉葵を献上させ、代わりに酢漿草紋を与えたという。また、家康の祖父の清康が本多正忠に乞うて、松平の紋として葵を貰ったともいう。【出典

# 葵紋: アオイの葉と花を紋様化したもの。元は京都の賀茂神社の神紋で、神事に使用されたことから信仰的意義を表している。始まりは丹波船井郡の豪族の西田氏という。【出典


# 葵: フタバアオイ(カモアオイ)は賀茂神社の神事で使用された。戦国時代に三河地方の松平家本多家、伊那家など賀茂神社を信仰した家で使用された。ちなみに本多家は賀茂神社の神職だった。
・ 善光寺の「立ち葵紋」は建立した本田善光の紋。

# 葵紋: 松平氏の発祥の地の三河国の松平村は、加茂郡にあり、先祖は加茂朝臣として、賀茂神社に奉仕していた社家だったことに由来する。【出典

# 神紋や家紋に使われる「葵(あおい)」はもともと「二葉葵紋」。

# 葵紋
・ 「アオイ」の草は、京都の賀茂神社の裏山や、三河国賀茂郡に多く生えていたので「カモアオイ」ともいう。【出典
・ 徳川家: 葵巴紋、六葵紋。清和源氏義家流
・ 松井家: 裏葵紋。清和源氏庶流
・ 本多家: 立葵紋、黒餅立葵紋。藤原氏兼通流。
・ 川村家: 剣葵紋。藤原北家秀郷流
・ 菅原家: 左離立葵紋。清和源氏頼光流

# 葵紋: 徳川家をはばかって江戸時代に改紋した諸家

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