「松平」の名字の由来
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■ 松平(まつだいら、まつひら)

【2021/03/04:改編】

# 1859位

# 代表家紋

# 清和源氏新田氏流などにみられる。

# 富山県:559位、石川県:571位、岩手県:645位、愛媛県:739位、和歌山県:776位、〜山形県:1350位など。

# 江戸幕府の将軍家の徳川家の祖。【代表家紋: 

・ 松平氏のルーツ地の松平郷では、賀茂社への信仰があつく、賀茂社の神紋である「」を家紋とした。

# 主なルーツ地

・ 三河国賀茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)をルーツとする。

 室町時代の中頃の15世紀の初めに、新田義貞の子孫で上野国新田郡世良田の出の徳阿弥という僧侶が三河国松平郷にあった在原業平の子孫に婿入りし、松平親氏を称した。

 愛知県豊田市松平町は、かつては三河国松平郷だった。近くには、松平氏の発祥の地の松平城址がある。

# 幕末の300大名の中で、「徳川」「松平」を名乗る家は56家にのぼる。

# 余談だが、松平長七郎は三代将軍徳川家光の弟である忠長遺児という設定だが架空の人物と言われる。「長七郎江戸日記」里見浩太朗。

# 富山県の松平は「まつひら」と読み、富山からの移住者が多い北海道でもそう読まれる。

# 富山県に多く見られ、富山県では85%が「まつひら」読み。【出典

# 山形県の松平家: 上山藩主藤井松平家末裔。関ヶ原の戦いで、信一が功をあげ、常陸国土浦3万5千石で立藩。後に上山に転封。

・ 上山藩主。藤井松平氏の子孫。松平信一が1590年の関東入国の際に下総国相馬郡布川で5000石を与えられたのが祖。関ヶ原の合戦の功で、常陸土浦3万5000石となり土浦藩を立藩。三代信吉の母は徳川家康の異父妹で、信吉は1617年に上野高崎を経て、1619年に丹波篠山5万石に転じた。さらに、忠国が播磨明石7万石、信之が大和郡山8万石に転じた。信之は1685年に老中となって下総古河9万石に加転。その子忠之は1693年に乱心のため所領を没収されたが、忠之の弟の信通が備中庭瀬3万石を与えられて再興した。1697年に出羽上山に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 山形県の松平家: 庄内藩家老酒井忠次の四男の久恒が塩竃松平家の養子となった後に独立し、酒井忠勝が庄内藩主になった際に仕えた。 

# 福島県の松平家: 会津藩主徳川秀忠の三男で徳川家光の異母弟にあたる保科正之を祖とする。正之は寛永8年に信濃国高遠藩3万石の保科家を継ぎ、出羽国山形20万石を経て会津23万石を領した。【家紋:会津三つ葵明治維新後には子爵松平容保の家紋

・ 三代目の保科正容の時に松平姓を与えられた。出典】 

・ 会津藩主。徳川秀忠の三男で、三代将軍家光の異母弟に当たる保科正之が祖。正之は1631年に信濃高遠藩3万石を継ぎ、出羽山形20万石を経て、1643年に会津23万石に転じ、名君として知られた。幕末に、松平容保は京都守護職となって公武合体を推進、大政奉還後は奥羽越列藩同盟を結成して官軍と戦って敗れた。1868年には陸奥斗南3万石へ。その後子爵。【出典

# 福島県の松平家: 陸奥守山藩(福島県郡山市)藩主。水戸藩の初代藩主の徳川頼房の四男の頼元が1661年に2万石を分知されて、常陸額田藩を立藩したのが祖。1700年に陸奥守山に転封。明治維新後、1868年に9300石を加増されて、1870年に常陸松川(茨城県大洗町)に転じた。その後子爵。【出典

# 茨城県の松平家: 常陸府中藩(茨城県石岡市)藩主。水戸藩の初代藩主の徳川頼房の五男の頼隆が、1661年に常陸国久慈郡で2万石を分知されたのが祖。1700年に2万石を加増されて常陸府中に陣屋をおいた。明治時代には子爵。【出典

# 茨城県の松平家: 常陸宍戸藩(茨城県笠間市)藩主。水戸藩の初代藩主の徳川頼房の七男の頼雄が、1682年に常陸国茨城郡で1万石を与えられ宍戸に陣屋をおいたのが祖。1864年には頼徳が水戸藩内の抗争に巻き込まれ、幕府に手向かったとされて自刃し所領を没収された。1868年には隠居していた頼位が再興を許され、明治時代には子爵。【出典

# 群馬県の松平家: 上野国小幡藩(2万石)の松平家。群馬県甘楽郡甘楽町。小幡藩はもともと織田家が藩主だが、出羽国天童に移り、松平家が入った。 

・ 前橋藩主。1624年に秀康の五男の直基が越前勝山で3万石を与えられたのが祖。1635年に越前大野5万石。1644年に出羽山形15万石を経て、1648年には姫路15万石に入封したが、1681年の越後騒動に連座して、豊後日田7万石に減転。その後、1686年に出羽山形10万石、1692年には陸奥白河15万石、1741年に播磨姫路15万石と加増を重ね、1749年に朝矩の時に上野前橋15万石に入封。1767年に利根川の水害で前橋城が被災し、武蔵川越に転じ、1867年には再度前橋藩に戻った。明治時代には伯爵。【出典

# 新潟県の松平家: 越後国糸魚川藩主。【出典】 

・ 糸魚川藩主。福井藩四代藩主の光通の庶子の直堅が、1677年に四代将軍家綱から1万石を与えられたのが祖。1717年に直之が越後国頸城郡に所領を与えられて糸魚川藩を立てた。1857年に藩主となった直簾(茂昭)は翌年に宗家の福井藩を継いだ。その跡は明石藩の松平斉詔の七男の直静が継いだ。明治時代には子爵。【出典

# 福井県の松平家: 越前国福井藩松平家(32万石)は、徳川家康の次男の結城秀康が藩祖。幕末には政治総裁の松平春獄がでた。【家紋:徳川葵明治維新後には侯爵。 

・ 福井藩主。徳川家康の二男の秀康の末裔。秀康は結城晴朝の養子となって結城秀康を称し、下総結城で10万1000石を領した。関ヶ原の合戦後、越前北庄67万石に入封したが、1623年に忠直のときに改易となった。1624年に弟の忠昌が領地を継いで福井藩と改称した。1645年には分知して44万7000石となった。1686年には綱昌が発狂して除封、昌親(吉品)が再度藩主となって25万石となり、後に32万石に加増。幕末に、松平慶永は公武合体を唱えて活躍した。明治時代には伯爵。慶永の三男の慶民は1906年に一家を興して子爵。【出典

# 長野県の松平家: 信濃国上田藩(5万3000石)の松平家出羽国上山の藤井・松平家の分家。幕末の藩主の松平忠高は老中をつとめ、井伊直弼大老に担ぎ出した。

・ 上田藩主。藤井松平氏の子孫。信吉の二男の忠晴は1642年に駿河田中藩2万5000石を立藩。1644年に遠江掛川3万石、1648年に丹波亀山3万8000石に転じた。忠周は若年寄となり、武蔵岩槻4万8000石を経て、但馬出石に転じ、1706年に信濃上田5万8000石に入封。後に京都所司代・老中を務めた。幕末に、忠固は1848年に老中となり、ペリー来航に対応。阿倍正弘の登用に反対して免職となったが、阿部の死で老中に復職し、井伊直弼の大老登用に尽力した。戊辰戦争では忠礼(ただなり)は新政府軍に属し、明治維新後にはアメリカに留学。帰国後は外務省に入り、子爵。【出典

# 愛知県の松平家: 三河国の戦国大名。清和源氏の新田氏の一族の得川義季の子孫が諸国を流浪後に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉の婿となったのが松平家の祖の親氏であるというが、不詳。代々松平郷に割拠する土豪で、親氏のころから西三河に勢力を広げ始めた。室町時代中期頃、三代信光は岩津城(岡崎市)を本拠とする傍ら、政所執事の伊勢氏の被官で、松平信光の弟の益親は長禄年間には京都で金融業を営んだ。一方、信光は1469年頃には安祥城(愛知県安城市)をも手中にし、多くの庶子家を周辺に輩出して一八(じゅうはち)松平と呼ばれた。信光の跡は、嫡男の親長が岩津城を継いだが、1506年に今川氏の侵攻で滅亡。代わって、安城城主の親忠が松平一族の惣領となった。1523年に宗家を継いだ清康は、足助鈴木氏を降すと、吉田城主の牧野氏、田原城主の戸田氏、作手城主の奥平氏、田峯城主の菅沼氏など、今川氏の被官であった諸氏を次々と従え、東三河の大半を制圧した。三河国をほぼ支配した清康は尾張国に進出したが、1535年織田信秀と対峙中に家臣によって殺され没落した。子の広忠は叔父の信定によって追放され、1537年に駿河の今川義元と三河の吉良持広の支援を得て岡崎城に復帰、子の竹千代(のちの徳川家康)を今川氏に人質として差し出した。1547年には広忠も家臣に殺され、今川氏によって領国は併合された。1559年に家康は岡崎に戻り、翌年の桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にしたのをきっかけに独立。1562年に織田信長と結んで三河国を平定し、以後徳川氏と改称した。【出典

# 愛知県の松平家: 旗本で西ノ郡松平家。竹谷(たけのや)松平家の末裔竹谷松平家は、松平信光の長男の守家が三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市竹谷町)に転じて天文16年(1547年)に竹谷城を築城したのが祖。松平家清は、関ヶ原の戦いで尾張国の清洲城番を努め、江戸時代には三河国吉田3万石したが、跡継ぎがおらず慶長17年(1612年)に断絶。その後、一族が三河国宝飯郡5千石で旗本に。

・ 交代寄合竹谷松平氏の子孫。1590年に家清は徳川家康の関東入国に際し、武蔵国児玉郡八幡山(埼玉県本庄市児玉町八幡山)で1万石を与えられた。関ヶ原の合戦では尾張清洲城の城番を務め、戦後三河吉田3万石に加転。しかし、二代忠清は襲封1年半後の1612年に28歳で急死、跡継ぎがおらず断絶した。その後、忠清の弟の清昌が三河宝飯郡5000石で再興し、西ノ郡(蒲郡市)に陣屋を置いて交代寄合となった。後、分知して4500石。【出典

# 愛知県の松平家: 松平郷松平家。松平泰親の子の信広を祖とする。440石。

・ 交代寄合松平郷松平家。松平泰親の庶長子という信広を祖とする。信光が松平郷を出て松平氏を発展させたことから嫡流となったが、本来は父祖の地である松平郷を領した信広が嫡流であるともいえる。代々、太郎左衛門を称した。1590年の家康の関東入国で尚栄はいったん関東に移ったが、1613年に家康に願い出て、旧松平郷に210石を賜って戻った。後に440石に加増、小禄ながら交代寄合であった。【出典

# 岐阜県の松平家: 美濃国高須城主尾張藩二代藩主の徳川光友の二男の義行が天和元年(1681年)に信濃国高取で3万石で立藩。後に、美濃国に転じ高須(岐阜県海津市)に陣屋をおいた。

・ 美濃高須藩(岐阜県海津市)藩主。尾張徳川家の分家。尾張藩の二代藩主の徳川光友の二男の義行が、1681年に信濃国伊那・高井・水内三郡で3万石を与えられたのが祖。所領の大半が山間部だったことから、1700年に領地の多くを美濃国に移され、石津郡高須に陣屋をおいて美濃高須藩となった。明治時代には子爵。【出典

# 岐阜県の松平家: 美濃国岩村藩(岐阜県恵那市)の松平家(3万石)は、西尾藩大給松平家の分家。幕末の藩主の松平乗命は陸軍奉行を務めた。  

# 三重県の松平家: 伊勢国桑名藩主。【家紋:松山梅鉢明治維新後には子爵。 

・ 伊勢桑名藩主。徳川家康の異父弟の久松定勝の三男の定綱は徳川秀忠に仕えて1609年に下総山川藩1万5600石を立藩して、松平氏を称したのが祖。以後、美濃大垣を経て、1710年に越後高田へ。1741年に定賢が陸奥白河11万石へ。1783年に田安宗武の三男の定信が藩主となって藩政を改革、白河藩を天明の大飢饉から救って名君として知られた。1787年には老中となり寛政の改革を断行し、綱紀の粛正を行った。1823年に定永の時に伊勢桑名11万石に転じたが、幕末には幕府方に属して官軍と戦い、1869年に6万石に減じられた。明治時代には子爵。【出典

# 滋賀県の松平家: 井伊家の縁戚。岸和田藩主の松井(松平)康重の四男の康紀が分知され旗本と成り、紆余曲折後に井伊家の縁戚となった。 

# 兵庫県の松平家: 播磨国明石藩主結城秀康の六男の直良が寛永元年(1624年)に2万5千石を分知。 

・ 明石藩主。1624年に結城秀康の六男の直良が2万5000石を分知されたのが祖。1635年に越前勝山3万5000石、1644年に越前大野5万石を経て、1682年に直明が播磨明石6万石に転じた。1840年に11代将軍家斉の子の斉宣を養子に迎えて8万石となり、10万石の格式を与えられた。明治時代には子爵。【出典

# 島根県の松平家: 松江藩主徳川家康の次男の松平(結城)秀康の子の松平直政が信濃国松本から転じた。 

・ 松江藩主。徳川家康の二男の結城秀康の末裔。1619年に秀康の三男の直政が上総柿崎藩1万石を立藩したのが祖。その後、越前大野5万石、信濃松本7万石を経て、1638年に出雲松江18万6000石に転じた。江戸時代中期の藩主の松平治郷は家老の朝日丹波とともに藩政改革を実行した名君で、また不昧と号した茶人で、石州流を興した。明治時代には伯爵。分家に、広瀬藩主と母里藩主の松平家がある。【出典

# 島根県の松平家: 石見浜田藩主。徳川綱重の三男で六代将軍家宣の弟の清武は、越智氏に養われて越智氏を称していたが、1707年に松平氏を許されて上野館林2万4000石に入封したのが祖。武元は老中を務め、6万1000石に加増された。1832年に石見浜田に転じたが、1866年の第二次長州征伐で長州軍に敗れて浜田城を放棄、美作鶴田(岡山市北区)に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 島根県の松平家: 出雲広瀬藩主。初代松江藩主の直政の二男の近栄が1666年に新田3万石を分知され、能義郡広瀬(島根県安来市広瀬町)に陣屋を構えたのが祖。明治時代には子爵。【出典

# 島根県の松平家: 出雲母里(もり)藩(島根県安来市)藩主。初代松江藩主の直政の三男の隆政が1666年に新田1万石を分知され、出雲母里を居所としたのが祖。1673年に隆政が没した際、無嗣であったため本藩に返されたが、直政の四男の直丘を養子とすることが認められて再興した。明治時代には子爵。【出典

# 岡山県の松平家: 津山藩主。1623年に松平忠直が改易された後に、1624年に子の光長が越後高田で25万石を与えられて再興したのが祖。そのため、同家では越前家の嫡流は福井藩主ではなく、津山藩主家であるとする。光長は1681年に越後騒動で改易。1698年に宣富が津山10万石で再興した。1726年に5万石に減封となったが、1817年に11代将軍家斉の14男の斉民を養子に迎えて10万石に復帰した。明治時代には子爵。【出典

# 香川県の松平家: 高松藩主。水戸の徳川家の分家。【出典】  

・ 高松藩主。水戸藩の初代藩主の徳川頼房の長男の頼重は、長男にもかかわらず嫡子とされず、1639年に5万石を与えられて常陸国下館藩を立てたのが祖。1642年に讃岐高松12万石に転じた。明治時代には伯爵。【出典

# 愛媛県の松平家: 松山藩主。古代貴族の菅原氏の支流で、三河の武士の久松家の子孫。出典】  

# 愛媛県の松平家: 西条藩主。紀州徳川家の分家。紀州藩の初代の徳川頼宣の二男の頼純が1668年に紀伊国内で5万石を分知されたのが祖。1670年に幕府から伊予国で3万石を加増されたため、当初の5万石は紀州藩に返し、伊予国西条(愛媛県西条市)に陣屋をおいて西条藩3万石を立藩。参勤交代をしない定府大名だった。明治時代には子爵。【出典

# 長崎県の松平家: 島原藩主。深溝家松平氏の子孫。五井松平氏の忠景の二男の忠定が三河国額田郡の深溝城(愛知県額田郡幸田町深溝)城主の大場主膳を討ち、深溝城に移り住んだのが祖。家忠の時に徳川家康に仕えて、1590年の関東入国で武蔵国忍1万石を領した。1594年には下総小見川(千葉県香取市)1万石に転じたが、関ヶ原の合戦に際して伏見城で戦死した。戦後、長男の忠利は1601年に旧領の深溝で1万石を与えられ、深溝藩を立藩。1612年に三河吉田3万石、1632年に三河国刈谷3万石、1649年に丹波福知山4万5900石を経て、1669年に肥前島原2万石に入封。1750年に忠祇が宇都宮に転封となったが、その子の忠恕が1774年に島原7万石で再封入した。明治時代には子爵。【出典

# 大分県の松平家: 杵築藩主。能見松平家の子孫。重勝は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦後、松平忠輝の付家老として越後三条で2万石を領した。忠輝はの改易後に幕臣に戻り、1617年に下総関宿藩2万6000石を立藩。1619年に遠江横須賀に転じた。以後1622年に出羽上山4万石、1626年には摂津三田3万石、1632年に豊前竜王3万7000石、1642年に豊後高田3万7000石を経て、1645年に豊後杵築藩主となった。重栄は寺社奉行を務めた。明治時代には子爵。【出典

# 松平家の松平は愛知県豊田市の地名。ここが三河の土豪だった松平氏の本拠地。

・ 松平(まつだいら): 愛知県豊田市松平町。矢作(やはぎ)川支流巴川中流域、炮烙山・六所山の西麓に位置する。地名は、松が繁茂していたことによると伝えられる。徳川家康の祖松平氏の発祥の地として有名で、応永年間頃に新田得川氏の後裔で徳阿弥と称する時宗の僧が松平郷に来て郷主松平太郎左衛門信重の婿となり、還俗して家督を継ぎ太郎左衛門親氏と称したのが徳川松平氏の初代と伝えられる。【出典

【松平諸家】

# 竹谷松平: 松平信光の長男の守家の子孫が三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市)を本拠とした。松平家清は徳川家康の異母妹(久松氏)を妻とし、家康の関東入国後に武蔵国八幡山1万石を領した。関ヶ原の戦いの後には吉田3万石を領したが、跡継ぎがおらずに断絶し、一族が旗本として続いた。

# 形原松平: 幕末の大老井伊直弼の正室は丹波国亀山の形原松平家から来ている。松平信光の四男の与副の子孫で三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市)に由来する。松平家信は家康の関東入国後に下総国五井、大阪の陣の後には三河国形原1万石を領した。その後、高槻、佐倉を経て高槻5万石。後に丹波国亀山に移った。幕末の老中の松平信義は生麦事件の処理などを行った。

# 能見松平: 松平信光の八男の光親が三河国額田郡能見(愛知県岡崎市)に住んだのがルーツ。江戸時代には松平忠輝の付家老として越後国三条で2万石を領したが、忠輝が失脚したため関宿を経て、遠江国横須賀兼駿府城代となった。その後、出羽国上山、三田、豊前国竜王、豊後国高田を経て、1645年に豊後国杵築3万2千石。

# 長沢松平: 松平信光の子の親則が三河国宝飯郡長沢(愛知県碧南市音羽町)に住んだのが祖。徳川家康に六男の忠輝が継いだが改易。三代将軍徳川家光の時代に「知恵伊豆」と言われた松平伊豆守信綱の出身は大河内家だが、叔父の松平正綱の養子となり松平を称した。松平伊豆守信綱は1627年に立藩し、忍3万石から川越6万石へ。

# 深溝(ふこうず)松平: 松平信光の七男の忠景の二男の忠定が三河国額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町)に住んだのに始まる。松平家忠(武蔵国忍1万石)は関ヶ原の戦いの前哨戦で鳥居元忠などと一緒に伏見城で討ち死にをした。家忠の子の忠利は深溝、吉田、刈谷、福知山、島原、宇都宮と転じ、1774年に再度島原7万石へ。

# 大給(おぎゅう)松平: 松平信光の子の親忠の二男の乗元が三河国加茂郡大給(愛知県豊田市)に住んだのが始まり。

# 滝脇松平: 松平親忠の九男の乗清が三河国加茂郡滝脇(愛知県豊田市)に住んだのが始まり。

# 桜井松平: 三河国碧海郡桜井(愛知県安城市)を本拠とした。松平を称していたが明治時代に桜井改姓

# 藤井松平: 三河国碧海郡藤井(愛知県安城市)を本拠とした。松平信一が関ヶ原の戦いの後に常陸国土浦3万5千石。

# 津山松平家は、結城秀康の子孫。

【戦国大名家辞典 森岡浩 東京堂出版】より

# 松平家: 三河の戦国大名で後の徳川家三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)をルーツとする。「三河物語」では清和源氏新田氏の一族の得川義季の子孫が諸国を放浪後に三河国松平郷の松平太郎左衛門尉の婿となったとするが不詳

・ 竹谷松平家: 松平信光の長男の守家が三河国額田郡逢生村(愛知県岡崎市)から三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市竹谷町)に移り住んだのが祖。天正18年(1590年)に家康の関東入国に際して松平家清は武蔵国児玉郡八幡山(埼玉県本庄市児玉町八幡山)で1万石を領す。関ヶ原の戦い後三河国吉田で3万石を得たが跡継ぎがおらず断絶。その後、一族が三河国宝飯郡で5千石で再興し、交代寄合となった。

・ 形原家: 松平信光の四男の与副を祖とする。三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原町)に住み今川家に仕えていた。後に徳川家康に仕え、家康の関東入国では家信が上総国市原郡五井(千葉県市原市)で5千石を領す。関ヶ原の戦いの後には三河国形原5千石を経て、後に1万石の大名となった。以後各地を転々とし、丹波国亀山藩主

・ 大草家: 松平信光の五男の光重が三河国渥美郡大草(愛知県田原市)に住んだのを祖とする。康安年間徳川家康に仕え江戸時代旗本8千石だったが無嗣断絶。

・ 五井家: 松平信光の七男の忠景が新宮家の三河国宝飯郡五井城(愛知県蒲郡市五井町)を奪ったのが祖。徳川家康に仕え、江戸時代には旗本6千石。

・ 深溝家: 五井松平家の忠景の二男の忠定が三河国額田郡の深溝城(愛知県額田郡幸田町深溝)の城主の大場主膳を討って深溝城に住んだのを祖とする。徳川家康に仕え、家康の関東入国に際して武蔵国忍1万石を領す。江戸時代には各地を転々とし、島原7万石。

・ 能美家: 松平信光の八男の光親が三河国額田郡能美(愛知県岡崎市)に住んだのが祖。徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後は松平忠輝の付家老として越後国三条2万石。忠輝が改易後には幕臣にもどり、下総国関宿藩2万6千石。後に遠江国横須賀から各地を転々とし、豊後国杵築藩主

・ 長沢家: 松平信光の十一男の親則が三河国宝飯郡に長沢城(愛知県豊川市長沢町)を築いて住んだのを祖とする。徳川家康の関東入国に際しては武蔵国深谷1万石。

・ 大給家: 松平信光が大給城(愛知県豊田市)を奪って親忠に譲り、その二男の乗元が城主となったのを祖とする。乗元の孫の代に嫡流の乗正流と傍流の親清流に分かれた。嫡流はその後家康の関東入国に際して上野国那波(群馬県)で1万石を領す。江戸時代には美濃国の岩村藩2万石を立藩、各地を転々として三河西尾6万石。

 傍流は大給宗家の家臣だったが、家康の関東入国に際して上野三ノ倉(群馬県高崎市倉渕町)5千5百石。江戸時代には下野国板橋藩1万石を立藩し、その後は各地を転々とし豊後府内藩2万2200石。

・ 滝脇家: 松平親忠の九男の乗清が三河国賀茂郡滝脇(愛知県豊田市滝脇町)に住んで滝脇氏を称した。江戸時代には旗本から駿河国小島藩1万石。

・ 福釜家: 松平長親の二男の親盛が永正年間三河国碧海郡の福釜城(愛知県安城市)に拠ったのが祖。

・ 東条家: 松平長親の四男の義春が東条松平氏を称した。天正年間に断絶。

・ 藤井家: 松平長親の?男の利長が三河国碧海郡の藤井城(愛知県安城市藤井町)に拠ったのが祖。家康の関東入国に際して下総国相馬郡布川5千石。関ヶ原の戦いの功で常陸国土浦3万5千石。その後各地を転々とし、出羽国上山藩主信濃国上田藩主は分家。

・ 三木家: 松平信忠の二男の信孝が三河国碧海郡三木(愛知県岡崎市)に住んで三木松平氏を称した。

・ 松平郷松平家: 松平泰親の庶長子の信広を祖とする。家康の関東入国に際して一旦関東に移ったが、1613年に家康に願い出て旧領の松平郷に戻った。後に交代寄合440石。


# 松平信綱 ・ 松平定信 ・ 松平定政

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