松平定信 | |
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■ 松平定信(まつだいらさだのぶ)
・ 定信は1758年に御三卿筆頭の田安宗武の子として生まれた。一時は将軍の有力候補だったが、陸奥国の白河藩に養子にだされた。1787年に老中首座となり、寛政の改革を進めたが1793年に失脚した。失脚の背景には大奥や将軍徳川家斉との確執があったという。経済改革で大奥の予算を絞ったでしょうからねぇ。嫌われちゃう。しかし、世の中の為になり世の中を変える人は嫌われ役だね。
# 松平定信は「ブラブラ」するのが好きで、隠居してからは毎日下屋敷(1万7千坪)の庭園を一日中ブラブラしていたそうだ。もちろん、できれば江戸の町をブラブラしたかったんだろうけど、立場が立場だからねぇ。そこ(下屋敷)が、今の築地市場だそうだ。
# 松平定信が、白河から実収が多い桑名への転封を画策し、白河、桑名、忍の三角トレードにて白河から桑名に転じた。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
■ 松平定信(まつだいらさだのぶ)【出典】
・ 1758−1829年。享年72歳(病死)。
・ 出身地: 江戸。
・ 肩書き: 大名(白河藩主)
・ 家族: 祖父:徳川吉宗
・ 家紋: 星梅鉢紋
・ 徳川吉宗の孫で、白河藩主のときに、天明の大飢饉を迎えたが、倹約と領民救済措置、他地域からの迅速な米の買い入れなどで、藩内から餓死者を出さなかった。その手腕が認められ、松平定信は田沼意次の失脚後の1787年に老中になって、幼少の十一代将軍の徳川家斉を補佐した。定信は祖父の吉宗にならって政治改革に着手して、賄賂を廃止し厳しい倹約政策を行い、田沼意次の重商主義から重農主義に転換した。各地に飢饉の備えた米穀を蓄えさせ(囲い米)、町民に節約させた分の7割を積み立てにまわした(七分積金)。また、朱子学以外の学問を禁じ(寛政異学の禁)、激しい出版統制も行った。これら一連の「寛政の改革」は、幕政を引き締めて、幕府の権威を高めた反面、民衆からの反発を招いて、やがて一部の反発は尊皇論へと発展した。その後、家斉と不和になって、老中は失脚。定信は白河藩に戻って、藩内では名君として一生を終えた。
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