田沼意次
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■ 田沼意次(諱): 「田沼」の名字の由来

・ 1719年〜1788年
・ 幼名: 龍助
・ 階位: 従四位下侍従
・ 田沼意次の父親の意行は、八代将軍吉宗に従って紀州藩士から旗本になった。当時は600石。そして意次が吉宗の子の家重の小姓となった。家重が将軍になると、出世して大名となった。1769年には家老格となり、1772年には遠江国相良藩主5万7千石。

・ あまりいい評判の残っていない意次だが、いつの世も同じで政権交代がおきた後は、現政権は前政権の評判をおとしめる傾向があり、そういった視点もあるのかもしれない。
意次は1719年に紀州藩の足軽だった田沼意行の長男として生まれた。吉宗が将軍になるときに紀州から江戸に連れてきた家臣は約100人といわれるが、田沼家はその一人だった。意次は16歳の時に家重の小姓となり1758年には遠江国の相良で1万石を与えられた。経済政策として注目すべきは蝦夷地116万町歩の開発計画で、7万人の移住をともなったものだったが、意次の失脚で中止された。

# 田沼意次(たぬまおきつぐ)【出典
・ 1719−1788年。享年70歳(病死)。
・ 出身地: 江戸。
・ 肩書き: 幕臣。
・ 家族: 田沼意知。
・ 家紋: 七曜紋。
・ 父親は八代将軍の徳川吉宗に仕えて旗本になった。田沼意次は九代将軍になる家重の小姓になって出世を重ねた。十代将軍の家治の信任もあつく、側用人から老中へと出世して、相良藩5万7000石の大名になった。老中になった意次は、まず蓄積された財政赤字の解消にとりくんだ。しかし、幕府の税収は増加したが、保守層からの反発を招き、賄賂政治家の汚名をきせられた。また、浅間山の噴火や天明の大飢饉が農村をおそい、米価は値を上げて、治安は悪化し、家治の死とともに意次は失脚。蟄居を命じられ、二度の減俸を受けて、晩年は不遇だった。

■ 田沼意知(たぬまおきとも): 1749−1784年。田沼意次の長男。父の政治を助けて、34歳にして若年寄となる異例の出世を遂げたが、翌年、佐野政言に襲われて死亡した。賄賂政治を嫌った江戸市民はこれをたたえたため、反田沼派が台頭することになって田沼意次は失脚した。【出典


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