紀州藩
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■ 紀州藩(きしゅうはん): 和歌山県和歌山市

・ 「紀伊」の地名

・ 徳川家55万5千石・御三家

・ 徳川大納言

・ 徳川頼宣: 紀伊国紀州藩祖。徳川家康の十男。

・ 頼宣の母のお万の方は、上総国勝浦城主の正木氏の娘。

・ 紀州徳川家家老安藤家は田辺城主で3万8800石。水野家は新宮城主で3万5000石。

・ 徳川治宝(はるとみ): 紀伊国紀州藩主。茶器作りのために庭園に窯を築いた。

・ 明治政府は1873年に徴兵令を出し、満20歳以上の男子に兵役の義務を課したが、それをさかのぼる4年前に兵制をもうけていたのが紀州の和歌山藩。最後の藩主の徳川茂承は、津田出を登用し、1869年に「交代兵要領」を出し、翌年には「兵賦略則」によって細部を布達した。その内容は、満20歳以上の藩内の男子の身体検査を行い、兵役を課するというもの。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

# 紀州藩
・ 表高55.5万石、実高54万石。
・ 人口: 不明。
・ 家臣団: 1000石以上47人、500石以上96人、200石以上321人、50石以上182人、10石以上343人など。
【歴史人 2018.08.No92 江戸三百藩「仕事と暮らし」】

# 徳川重倫(とくがわしげのり): 紀州藩主。徳川重倫は「奇行を重ねる稀代の暴君」と言われる。重倫は、癇癪持ちで、急に激怒して、刀を振り回しながら屋敷の中を走り回った。身体が大きかったので、特に異様に見え、狂人さながらだったという。重臣を刀で串刺しにしたことがあるから、家臣達はおびえていたという。側室の「おふさの方」も惨殺されたが、当時、おふさの方には治宝(はるとみ・後の十代藩主)という生後5ヶ月の男子がいた。重倫はその赤子にまで刃を向けた。老女が赤子を抱えて逃れたため、治宝は無事だった。【出典

# 紀州藩士: 朝比奈家 ・ 安宅家 ・ 渥美家 ・ 安藤家 ・ 今村家 ・ 岩手家 ・ 岩本家 ・ 上田家 ・ 上野山家 ・ 上原家 ・ 小笠原家 ・ 岡野家 ・ 尾寄家 ・ 垣屋家 ・ 郭家 ・ 加納家 ・ 葛山家 ・ 久野家 ・ 熊倉家 ・ 河野家 ・ 小泉家 ・ 巨勢家 ・ 後藤家 ・ 雑賀家 ・ 伊達家 ・ 田沼家 ・ 内藤家 ・ 贄家 ・ 野村家 ・ 馬場家 ・ 浜口家 ・ 平塚家 ・ 正木家 ・ 三浦家 ・ 水野家 ・ 陸奥家 ・ 村上家 ・ 目加田家 ・ 本居家 ・ 桃井家 ・ 山中家 ・ 由比家 ・ 渡辺家

# 紀州藩(きしゅうはん): 紀伊国。和歌山城。徳川家。親藩(御三家)。55万5000石。控間:大廊下。格:御三家。位階:正二位。上屋敷:千代田区紀尾井町。関ヶ原の合戦の後に、浅野幸長が甲斐府中から入封して立藩。元和5年に、徳川家康の十男の頼宣が入封して、廃藩置県へ。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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