「内藤」の名字の由来
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■ 内藤(ないとう)

【2021/12/25:改編】

# 165位

# 藤原北家_秀郷流藤原北家利仁流清和源氏などにみられる。

# 167位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 代表家紋

# 内藤氏: 下がり藤紋。藤原秀郷流。内舎人(天皇の警護や雑用を務めた)の「内」と、藤原氏の「藤」を合わせた。【あなたの起源を読み解く 名字の世界 インデックス編集部 イースト新書Q】

# 室町時代には、大きく分けて丹波(兵庫県)内藤氏と、長門(山口県)内藤氏の二つの流れがあり、江戸時代の譜代大名の内藤氏は丹波内藤氏の末裔。村上藩主の内藤氏も丹波内藤氏の末裔。【出典

# 藤原姓で、内舎人となった藤原氏の末裔で、一般的には藤原北家秀郷流で、源頼朝に仕えた内藤盛家を祖とするものが多いが、盛家に至る系譜は不詳。【出典

# 関東地方から東海地方にかけて多く見られる。【出典

# 東海地方、山梨県を中心に、関西地方から関東地方にかけて広く分布し、山梨県では19位。【出典

# 藤原秀郷から六代目の行俊(ゆきとし)が天皇の警護や雑務を行う官職の内舎人(うどねり)に就いたことから、内舎人の内と、藤原の藤をとったのが由来。

# 内藤家江戸時代の大名としても有名で、今の新宿あたりにあった宿場町は内藤家の近くにあったために「内藤新宿」と呼ばれた。

# 福島県の内藤家: 湯長谷藩(福島県いわき市)藩主。1670年に平藩主の内藤忠興の三男の政亮(頼直)は父から陸奥国磐前・菊多二郡内の新墾田1万石を与えられ大名となり、湯本に住んで湯本藩を立藩したのが祖。1676年に居所を湯長谷(ゆながや・いわき市)に移したため、以後は湯長谷藩となった。のちに1万5000石に加増。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加したため、1000石の減封となった。明治時代には子爵。【出典

# 福島県の内藤家: 会津藩の重臣。信濃国高遠城主の保科正直の弟の昌月が武田氏の家臣で上野国箕輪城主の内藤信豊の養子となり内藤氏を称した。 

# 新潟県の内藤家: 村上藩主。内藤清長の養子の家成は、松平広忠とその侍女であった清長の娘との間に生まれたといい、徳川家康の異母弟であるとされる。祖父である清長の養子となり、徳川家康に近侍した。清長の家督は実子の家長が継いだことから別家し、1590年に伊豆国君沢郡韮山(静岡県伊豆の国市)で1万石を領した。関ヶ原の合戦後、駿河国府中(静岡県静岡市)3万石に転じ、1606年に近江国長浜4万石、1615年に摂津国高槻4万石、1627年に陸奥国棚倉7万石、1705年に駿河国田中5万石を経て、1720年に越後国村上5万石へ。明治時代には子爵。【出典

# 新潟県の内藤家: 見附市石地町の旧家。代々大肝煎(庄屋)をつとめ、苗字帯刀を許された。【出典

# 長野県の内藤家: 信濃国高遠藩(3万3千石)の内藤家は延岡藩の内藤家の一族。七代将軍の家継時代におきた江島生島事件の江島は高遠に流された。 

・ 高遠藩主。内藤忠政の養子の清成は徳川秀忠に守り役として仕え、1590年の関東入国では相模国当麻(神奈川県相模原市)で5000石を与えられ、関東総奉行、江戸町奉行などを務めた。関ヶ原の合戦後には老中となって2万1000石に加増された。子の清次は三代将軍家光の守り役となり、跡を継いだ弟の清政が1622年に安房勝山藩3万石を立藩した。しかし、清政の死後無嗣断絶となり、1626年に正勝が2万石で再興した。1691年に清枚の時に信濃高遠3万3000石に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 長野県の内藤家: 岩村田藩(長野県佐久市)藩主。高遠藩初代藩主の忠政の四男の政次が一家を興し5000石で旗本になったのが祖。養子の正勝は上野国で1000石加増、さらに1693年に大坂定番となって摂津・河内国において1万石を加増され、計1万6000石となって諸侯に列し、武蔵国比企郡赤沼村(埼玉県比企郡鳩山町)に陣屋を置いて赤沼藩を立藩した。1703年に信濃国佐久郡に転じ、岩村田藩を立藩した。幕末、正縄は伏見奉行となり、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧にあたった。明治時代には子爵。【出典

# 愛知県の内藤家: 三河国挙母藩主日向国延岡藩主内藤家の分家。藤原北家_秀郷流で室町時代に丹波国曽地荘の地頭となり、後に三河国に移って碧海郡上野村に住んだのが祖。 

・ 挙母(ころも)藩(愛知県豊田市)藩主。1634年に内藤忠興の弟の政晴が陸奥国菊多・磐前・磐城の三郡内において2万石を与えられて大名となり、陸奥泉藩を立藩したのが祖。二代の政親は五代将軍綱吉の下で若年寄となり、生類憐れみの令を履行したことで知られる。1702年に上野安中藩2万石へ、1749年には三河挙母2万石に移った。明治時代には子爵。【出典

# 宮崎県の内藤家: 延岡藩主藤原北家_秀郷流で、盛俊の時に源頼朝に従い、室町時代には丹波国曽地荘(兵庫県篠山市)の地頭を努めた。応仁年間三河国に移り住み、後に松平氏に仕え譜代大名となった。 

・ 延岡藩主。藤原北家秀郷流の丹波内藤氏の子孫という。応仁年間に三河国に転じて、碧海郡上野村に住んだという。義清の時に松平信忠に仕え、上野城に拠った。以後、譜代の家臣となった。家長は1590年の関東入国で、上総佐貫2万石を与えられ、関ヶ原の合戦では伏見城を守って戦死した。子の政長は1622年に磐城平7万石に入封。義孝の兄で病身のため家を継がなかった義英は、露沾(ろせん)を号した俳人として著名。1747年に政樹の時に日向延岡に転封した。政樹は算学者でもあり、以後幕末まで数学は藩学の一つであった。また、露沾の長男であることから、沾城(せんじょう)と号した俳人としても知られた。幕末の当主の政義は大老井伊直弼の実弟。明治時代に子爵。【出典

# 将棋の内藤國雄は兵庫県神戸市の出身。女優の内藤洋子は茨城県神栖市の出身。歌手の内藤やす子は神奈川県横浜市の出身。俳優の内藤剛志は大阪府大阪市の出身。プロボクサーの内藤大助は北海道虻田郡豊浦町の出身。

【戦国大名家辞典 森岡浩 東京堂出版】より

# 福井県の内藤氏: 若狭国武田氏家老清和源氏の武田氏の一族で、若狭の武田国信の三男の元信が足利義政に仕え、孫の政信の時に内藤氏を称し、天ヶ城(福井県小浜市)に拠った。織田信長の越前侵攻に従い、本能寺の変の際に武田氏に従って明智光秀に組したので没落した。慶長19年に徳川家康に仕え旗本となり、上総国下総国常陸国で8千石を領した。一族の重純は若狭の武田氏に仕えた後、孫の正勝は豊臣秀頼に仕えて大阪の陣で討ち死。正勝の子の伊知・勝房兄弟は祖母が千姫の老女の刑部卿だったので徳川頼宣に仕えて紀州藩士

# 山口県の内藤氏: 周防国の大内氏の重臣。藤原北家で道長の子孫と伝えられるが、東国の御家人で地頭となって周防に下向したと言われる。江戸時代には長州藩の重臣。

# 京都府の内藤氏: 丹波国の戦国大名。鎌倉時代に内藤秀継が篠山から丹波国船井郡八木(京都府南丹市八木町)に移り住んだ。後に、丹波国の守護となった。足利義昭に組したため織田信長に所領を没収され、小西行長に属し、関ヶ原の後キリスト教の禁教令でマニラに追放された。

【苗字の謎が面白いほどわかる本 丹羽基二】より

# 藤原北家の秀郷流の他、藤原北家道長流、山城国の椿井氏流、若狭国の竹田氏流などがある。
# 関連姓氏: 内等、内納。

# 内藤家

# 岩村田藩 ・ 挙母藩 ・ 高遠藩 ・ 延岡藩 ・ 村上藩 ・ 湯長谷藩

# 国衆(国人)

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