長野県内の「内藤」の名字の詳細 | |
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■ 内藤(ないとう): 長野県の内藤家
# 長野県の内藤家: 信濃国の高遠藩(3万3千石)の内藤家は延岡藩の内藤家の一族。七代将軍の家継時代におきた江島生島事件の江島は高遠に流された。
・ 高遠藩主。内藤忠政の養子の清成は徳川秀忠に守り役として仕え、1590年の関東入国では相模国当麻(神奈川県相模原市)で5000石を与えられ、関東総奉行、江戸町奉行などを務めた。関ヶ原の合戦後には老中となって2万1000石に加増された。子の清次は三代将軍家光の守り役となり、跡を継いだ弟の清政が1622年に安房勝山藩3万石を立藩した。しかし、清政の死後無嗣断絶となり、1626年に正勝が2万石で再興した。1691年に清枚の時に信濃高遠3万3000石に転じた。明治時代には子爵。【出典】
# 長野県の内藤家: 岩村田藩(長野県佐久市)藩主。高遠藩初代藩主の忠政の四男の政次が一家を興し5000石で旗本になったのが祖。養子の正勝は上野国で1000石加増、さらに1693年に大坂定番となって摂津・河内国において1万石を加増され、計1万6000石となって諸侯に列し、武蔵国比企郡赤沼村(埼玉県比企郡鳩山町)に陣屋を置いて赤沼藩を立藩した。1703年に信濃国佐久郡に転じ、岩村田藩を立藩した。幕末、正縄は伏見奉行となり、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧にあたった。明治時代には子爵。【出典】
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