徳川秀忠 | |
【参考資料・文献】 | 【利用上の注意】 |
名字の由来のTop | 地名の由来のTop |
名字と地名のMenu | 歴史的人物のTop |
スポンサーリンク |
スポンサーリンク |
■ 徳川秀忠(とくがわ ひでただ): 「徳川」の名字の由来
・ 1579年〜1632年。
・ 江戸幕府の二代将軍。
・ 「徳川(苗字)」+「秀忠(諱)」
・ 幼名: 長松・竹千代
・ 別名: 江戸中納言
・ 階位: 従一位太政大臣
・ 院号: 台徳院
・ 秀忠の正室は「お江与の方」で、織田信長の姪。大変な恐妻家だったそうだ。そのため将軍なのに側室を持たせてもらえなかったという。保科正之は側室の子ではなく、浮気の子?
・ 徳川秀忠は、その時世中、外様23家、親藩・譜代16家の取りつぶしを行った。
・ 鎖国を定めた。鎖国によって、諸大名は自由に貿易を行えなくなりましたが、反面流行病の流行を防止できたという一面もある。
# 千姫
■ 徳川秀忠(とくがわひでただ)【出典】
・ 1579−1632年。享年54歳(病死)。
・ 出身地: 遠江国。
・ 肩書き: 江戸幕府二代将軍。
・ 家族: 父:徳川家康。
・ 家紋: 三つ葵紋。
・ 徳川家康の三男。22歳で迎えた関ヶ原の戦いでは、3万8000人の大軍を率いて中山道を西上したが、信濃国の上田城で真田昌幸・真田幸村親子に足止めされるなどで、関ヶ原への到着が合戦に間に合わずに、家康が激怒。秀忠は、自害も覚悟したが、徳川四天王の榊原康政がかばったため、許された。将軍になった秀忠は江戸幕府の基礎を固めた。
【Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。