真田家の人々
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■ 「真田」の名字の由来

■ 真田信利(さなだのぶとし): 真田幸村の兄の真田信之には従姉妹の清音院殿(せいいんいんでん)という妻がいたが、本多忠勝の娘と結婚するために離縁された。その、清音院殿の生んだ子が信吉で、庶長子という扱いになって、その子の信利が沼田領を得た。信利はこれが不満で、検地による増収に賭け、もとの表高3万石に対して、14万4000石という無茶な石高を打ち出した。この背伸びで、農民の不満が増大し、延宝8年(1680年)の洪水で大破した両国橋の用材提供を約したものの、納期に間に合わせられなかった。この不始末で信利は改易されて山形藩に預けられたが、幕府が再検地したところ6万5000石しかなく、信利の無理が明らかになった。【出典

■ 真田信之(さなだのぶゆき): 1566−1658年。真田昌幸の子で、幸村の兄。両者は豊臣秀吉の配下に入ったが、徳川家康に見込まれた信之は徳川氏についた。関ヶ原の合戦では東軍に属して父や弟の郡と戦った。戦後は、父と弟の助命を嘆願。上田藩主(長野県)になった。【出典

■ 真田昌幸(さなだまさゆき): 1547ー1611年。真田幸隆の三男。武田信玄に仕え、足軽大将をつとめた。上野国沼田城を攻略。武田氏の滅亡後、徳川家康と同盟を結んだが、のちに対立した。1585年の第一次上田合戦で徳川軍を破った。関ヶ原の合戦では西軍に属し、上田城で徳川秀忠軍を迎え撃って撃退した。戦後は、東軍についた真田信之の助命嘆願で命を救われ蟄居した。【出典

■ 真田幸隆(さなだゆきたか): 1513−1574年。信濃国豪族だったが、村上義清らに追われた。その後には、武田信玄に仕え、武田軍の先方衆として功をなし、「攻め弾正」と呼ばれた。のちの真田氏の礎を築いた。【出典

■ 真田幸貫(さなだゆきつら): 1791−1852年。信濃国松代藩の八代藩主。寛政の改革を行った松平定信の次男。天保の改革では幕府の老中になった。藩政改革では殖産興業を推進、佐久間象山を起用して洋学を奨励して藩校を開いた。【出典

■ 真田幸村(さなだゆきむら)出典
・ 1567−1615年。享年49歳(戦死)。
・ 出身地: 信濃国
・ 肩書き: 武将
・ 家族: 父:真田昌幸。兄:真田信之
・ 家紋: 六連銭紋
・ 本名は真田信繁。武田信玄に属した信濃国の上田城主の真田昌幸の次男。信玄の死後、織田信長徳川家康によって武田氏が滅亡してから、昌幸は織田信長に属した。本能寺の変の後には、昌幸は上杉氏に属し、その後大名として独立して、最終的には羽柴秀吉に属した。そのため幸村は10〜20歳代を人質として過ごした。関ヶ原の合戦では父の昌幸とともに西軍についた。上田城に2000の兵で籠城して、徳川秀忠の3万8000の兵を相手に奮闘した。しかし、西軍の敗退によって父子は九度山(和歌山県)に幽閉された。昌幸は九度山で死去したが、3年後の1614年に幸村は九度山を抜け出して3500に兵とともに大坂城に入った。大坂夏の陣(大坂の陣)で討ち死にした。


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