「真田」の名字の由来 | |
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■ 真田(さなだ)
【2021/02/17:改編】
# 779位
# 代表家紋
# 関東地方南部から東海地方にかけてと山陽地方に多くみられる。
# 石川県:326位、広島県:375位、秋田県:408、山形県:432位、岡山県:443位など。
# 清和天皇から賜姓された滋野(しげの)氏の流れの海野(うんの)氏の支流で信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を領したことに由来する、と言われている。真田幸村の家紋。
# 真田家(さなだけ): 家紋「真田六文銭紋」
・ 信濃国小県郡真田(長野県上田市真田)をルーツとする。
・ 滋野姓の海野氏流。真田昌幸の長男の信之は江戸時代には信濃国の上田藩主。子孫は信濃国の松代藩主。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】
# 主なルーツ地
・ 信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)をルーツとする。
・ 相模国大住郡真田(神奈川県平塚市)をルーツとし、桓武平氏の三浦氏の一族。岡崎義実の子の義忠が真田氏を称した。信濃国の真田氏とは別流。
# 歴史的に有名なのは大坂夏の陣で徳川家康を追い詰めた真田幸村。
# 長野県の真田家: 信濃国小県郡真田(長野県上田市)をルーツとし、海野家の一族。信濃国の松代藩(10万石)の真田家の本拠地の松代城(海津城)は川中島の戦いの舞台。真田家は幕末にも官軍として活躍、死者53人を出したが、報奨金3万両を賜る。【家紋:六文銭紋】
・ 松代藩主。戦国大名の真田氏の末裔。海野棟綱の子の幸隆が真田に住んで真田氏を称したというが不詳。関ヶ原の合戦では、昌幸・幸村父子は西軍に、昌幸の長男の信之は東軍に属し、親子で敵対した。信之は関ヶ原の合戦後、上田と上野沼田で9万5000石を与えられ、1618年には松代10万石に転じた。六代幸親は家老に恩田木工を登用し、藩政を改革した。幕末の幸貫は老中を務めた。明治時代には伯爵。幸教の四男の幸世は、1887年に分家して一家を興し、男爵。【出典】
# 長野県の真田氏: 信濃東部の戦国大名で海野氏の出と言われるが不詳。武田信虎の信濃侵攻で敗れ上野国に逃れた。信虎を追放して武田家の実権を握った武田信玄の重臣に真田幸隆がいる。関ヶ原の合戦では昌幸・幸村親子が西軍に長男の信之が東軍に属した。信之は江戸時代には信濃国上田と上野国沼田で9万5千石。元和4年(1618年)に信濃国松代10万石。【出典】
# 真田【出典】
・ 真田氏は滋野氏の出という。清和天皇の曾孫の善淵王が滋野姓を賜り、子の信濃判官滋野氏以来信州を本拠とした。ただし、紀国造説など諸説あるようだ。滋野氏は中世に海野氏、望月氏、根津氏に分かれ、真田氏は海野氏の出。海野棟綱の子の幸隆が武田氏に仕え、信濃国小県郡真田荘に住んで真田氏を称した。真田昌幸は幸隆の子で、幸村は孫。
・ 別流に、信濃国真田をルーツとする源満快流や、相模国をルーツとする桓武平氏の三浦氏流などがある。
# 「真田」の地名
# 松代藩
# 平成28年のNHKの大河ドラマは「真田丸」。 → 「真田丸にみる名字と地名」
■ 真田家: 真田幸隆 − 真田(武藤)安房守昌幸 − 真田信之(幸)※1・真田信繁(幸村)
※1: 真田信繁(幸村)の兄で、信濃国の上田藩・松代藩の初代藩主。伊豆守。
# 真田が実田として記録に表れるのが応永7年(1400年)の大塔(おおとう)合戦。
# 今の真田本家は松平定信の子孫かぁ?とすれば、血統的には徳川家康の子孫と言うことか。
# 国衆(国人)
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