相模国
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 旧国名と地名Top
スポンサーリンク
スポンサーリンク

# 旧東海道。

# 太閤検地での石高: 19万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。相模国は18位。

# 「和名抄」の訓は佐加三。

# 「古事記」」では相武国(佐賀牟)。

# 身狭(むさ)の国に由来し、「身狭上」が「さがみ」に、「身狭下」が「むさし」になった。

# 相模国(さがみのくに): 「和名抄」の訓は佐加三。「古事記」は相武国に作り、訓を佐賀牟とする。国名の由来については、もと身狭(むさ)の国と称していたのを、身狭上・身狭下に分け、前者が「さがみ」、後者が「むさし」となった。駿河・相模・武蔵の地を総称して佐斯(さし)の国と称していたのを、上・下に分け、佐斯上(さしがみ)が「さがみ」、佐斯下(さししも)が「むさし」になった。安房・上総・下総を含めて総(ふさ)の国と称した地の一部が「ふさがみ」「ふさしも」に分かれ、前者の「ふさがみ」が転訛した、御坂上・御坂下が「さがみ」「むさし」に転訛したなど、諸説がある。【出典

# 相模国の二宮: 神奈川県二宮町の川匂神社。

# 相模国: 相模国御浦郡には、田津、御浦(美宇良)、永蛭(比々留)、御崎(美佐木)、安慰の5つの郷があった。1郷は50戸で、御浦郡には約5000人が住んでいた。【出典

■ 愛甲(あいこう)郡: 神奈川県。古代より相模国に見られた郡名。郡名は本来「あゆかわ」で、のち転訛して「あいこう」となったものという。【出典

■ 鎌倉(かまくら)郡: 古代より相模国にみられた郡名。「和名抄」の訓は「加末久良」。「古事記景行天皇の巻に「鎌倉之別」が見え、これがのちに郡名となったものか。なお「カマ」は洞穴、「クラ」は岩の意という。【出典

# 長尾郷(中世): 神奈川県横浜市戸塚区
・ 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。相模国鎌倉郡のうち。地名としては「吾妻鏡」建保元年5月3日条に「自長尾馳参」とあるのが初見。和田義盛の乱に際して、長尾定景の子息である13歳の小童(字江丸)は、当地から兄の景茂・胤景の陣に加わって活躍し、義盛方の土屋義清らを感嘆させている。この長尾氏は大庭氏の一族で、前九年・後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の孫景忠の次子景弘が当地に住し長尾次郎と称したことから始まると伝える。【出典

■ 高座(こうざ)郡: 神奈川県高座郡。古代より相模国にみられる郡名。「延喜式」「和名抄」は「たかくら」とし、「日本書紀」天武紀では高倉郡とする。戦国期の小田原北条氏治下では東郡とも称した。【出典

■ 津久井郡(つくいぐん): 相模国・神奈川県の郡名
・ 古くは津久井領・津久井県という。当郡域は戦国期頃から単に津久井、あるいは津久井領と称されたが、元禄4年代官山川貞清が津久井県と称することを令した。これは以前、慶長寛文検地帳では、津久井・津久井領が多く、ときに愛甲(あいこう)郡・高座郡津久井領、また元和9年根小屋村鐘銘や寛永2年小倉村西光坊鐘銘には「津久井県」、「新編相模」が伝える正保国絵図には「津久井郡」とあり、「寛文印知集」では上川尻村・下川尻村・上中沢村・下中沢村・三ケ木(みかげ)村の5か村が高座郡、ほかの24か村が愛甲郡とされている。これらを通してみると、高座郡・愛甲郡が冠されたのは寛文4年下総関宿藩久世氏の支配になってからで、それ以前は津久井領が通称といえる。こうした変遷を経て元禄4年津久井県となるが、以後明治3年まで続き、同年津久井郡と改称した。近世において全国で「県」が単位となったのは当郡のみである。【出典

■ 三浦(みうら)郡: 古代から現在にかけて相模国(神奈川県)にみられる郡名。古くは御浦と書いた。古くは「古事記」に見られる日本武尊の東征伝説、中世では三浦氏一族の所領として、また近世ではペリー来航などでよく知られている。古代から海上交通の要衝である。律令制下では相模国八郡の1つ。平安後期以来、相模国でも武士団の成長が顕著だが、なかでも最も有名な家の1つである三浦氏は当郡を中心に、西は相模中央部、東は房総半島までその勢力範囲をひろげていた。【出典

■ 余綾・淘綾(ゆるき)郡: 神奈川県。
・ 淘綾郡(ゆるき): 神奈川県。古代より相模国の南部にみられた郡名。古くは余綾と書き、「和名抄」の訓は与呂岐。「万葉集」東歌も余呂伎とする。「よろき」=「ゆるき」で、風波で砂がゆり上げられた地、あるいは地層隆起で大地がゆり上げられた所という。【出典
# 礒長郷(しながのごう): 神奈川県。平安時代に相模国にみられた郷名。「和名抄」相模国余綾(よろき)郡七郷の1つ。当郷は「旧事本紀」巻10の国造本紀に、「師長国造 志賀高穴穂朝御世、茨城国造祖建許呂命児宮富鷲意弥命定賜国造」と見える。師長国造の治所である。「新編相模」によれば、古く相模の国は相模・師長の2国に分かれ北方山間地を左加牟といい、南方磯辺の地を礒長と称したという。川勾神社(二宮)の祭神の1つに級長津彦(しながつひこ)命があり、国造の氏神とみられていることから、当郷の比定地は同神社のある現在の二宮町山西付近と考えられる。なお「地名辞書」は、当郷は同郡霜見郷の西、中村郷の南にあたるといい、二宮町山西に隣接する小田原市山西・前川・小船・羽根尾・沼代・小竹・国府津(こうづ)などの瀕海地域と考えており、「地理志料」も同様に推定している。【出典
# 幡多野郷: 神奈川県秦野市。平安時代に相模国余綾(よろき)郡にみられた郷名。高山寺本は「幡多野」、東急本は「幡多」と記す。古代における当郷域は、現在の秦野市のほぼ全域と推定される。【出典


# 平安時代後半には、相模国(神奈川県)には、三浦家土肥家、大庭家などが栄えていた。 

# 続日本紀大宝元年(701年): 8月21日: 参河(みかわ)・遠江・相模・近江・信濃・越前・佐度・但馬・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・長門・紀伊・讃岐・伊予の十七カ国にイナゴの発生があり、大風が吹き人民の家屋が損壊し、秋の収穫に被害が出た。

統計表示