武田信玄 | |
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■ 武田信玄(たけだしんげん)【出典】: 「武田」の名字の由来
・ 1521−1573年。享年53歳(病死)。
・ 出身地: 甲斐国。
・ 肩書き: 武将。
・ 家紋: 武田菱紋。
・ 甲斐国で武田信虎の子として生まれた。信玄は出家してからの号で、幼名は太郎。16歳で元服して、ときの将軍の足利義晴の「晴」の字にちなんで「晴信」を称した。21歳の時に、専制政治行い、暴君といわれた父の信虎を、義兄の今川義元のもとに追放して家督を継ぐと、翌年には信濃国への侵攻を開始した。当時の甲斐国は凶作が続き、晴信は信濃国の義弟の諏訪頼重に救援を要請して、代わりに塩や海産物を贈ったが、何も届かなかったことが原因という。領土を拡大した晴信は、引き続き北信濃の小笠原長時や村上義清を降した。かれらが越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったため、景虎と川中島で激突した。川中島の戦いは、1553〜1564年にかけて5回にわたった。武田家は北条家や今川家と同盟を結んでいたが、今川義元の娘を嫁にしていた嫡男の義信が1565年に謀反をおこしたのをきっかけとして、武田信玄は今川家との同盟を破棄して、滅亡へと追い込んだ。その後、信濃国と駿河国を征して、遠江国・美濃国・上野国の一部にも勢力を拡大した。157上洛を開始して、織田家と徳川家の連合軍を遠江国の三方原で破った。同時に、浅井家・朝倉家・石山本願寺と結んで織田信長の包囲網をしいた。しかし、持病が悪化して1573年に死亡した。
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