「さ」行の人々
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■ 西郷従道(さいごうつぐみち): 1843−1902年。薩摩藩士で西郷隆盛の弟。山形有朋とともに、渡欧して軍制を学んだ。兄の征韓論や西南戦争には加担せず、薩摩藩出の重鎮として活躍。参議、内務大臣などを歴任した。海軍大臣のときに、山本権兵衛を重用して、日清・日露戦争で活躍した。【出典】

■ 斎藤一(さいとうはじめ): 1844−1915年。新撰組の三番隊組長で副長助勤。新撰組結成時の同志のひとりで、最年少幹部だった。1867年に、間者として御陵衛士に入り、その後、新撰組に復帰。最後まで新撰組として戦って、生き延びた。明治維新後には警視庁の警察官を務めた。【出典

■ 佐久間象山(さくましょうざん): 1811−1864年。信濃国松代藩士の出。若年期に数学を学び、のちに朱子学を学んだ。藩命で江川英龍に砲術、兵学を学び、それを吉田松陰や勝海舟に教えた。徳川慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、攘夷論者に暗殺された。【出典

■ 佐久間信盛(さくまのぶもり): ?ー1582年。織田信秀に仕えて、織田信長の補佐をした。殿軍(でんぐん)の指揮を得意にして、「退きの佐久間」の異名を持った。1580年に織田信長に折檻状をつきつけられて、息子とともに追放された。【出典

■ 佐久間盛政(さくまもりまさ): 1554−1583年。柴田勝家の甥。織田家の家臣として、多数の合戦で功を成した。信長の死後には勝家に従い、賤ヶ岳の戦いで豊臣軍と戦って、敗れて斬首になった。【出典

■ 佐々木高綱(ささきたかつな): ?ー1214年。石橋山の戦いで源頼朝の危機を救った。1184年の宇治川の戦いでは、頼朝に与えられた名馬にまたがって先陣を切った。出家後には西入(さいきゅう)と称して諸国を巡った。【出典

■ 佐々成政(さっさなりまさ): 1536?ー1588年。早くから織田信長に仕えて功を成し、本能寺の変の後には豊臣秀吉に対抗したが降伏した。徳川家康に再戦をうながすために、厳寒の北アルプスを越えたが説得することができず、その後は肥後国一国を賜ったが検地反対一揆を招いて、自害した。【出典

■ 里見義堯(さとみよしたか): 1507−1574年。安房国戦国大名上杉家佐竹家と結んで里見水軍を率いて、覇権争いで対立する北条家と戦った。房総半島に侵攻して、久留里城に拠って勢力を拡大した。【出典

■ 佐野政言(さのまさこと): 1757−1784年。旗本。江戸城中で、田沼意次の長男の田沼意知を切りつけて殺害した。乱心による刃傷と扱われ、切腹になったが、田沼政治への反感から、政言は「世直し大明神」と呼ばれた。【出典

■ 早良親王(さわらしんのう): 750−785年。光仁天皇の第二皇子で、桓武天皇の弟。桓武天皇の皇太子になったが、藤原種継暗殺事件に連座して淡路島に配流された。無実を訴えて絶食して、憤死した。その後、桓武天皇の母や皇后が死去して、長岡京が完成しないのは早良親王の怨霊の仕業といわれ、その祟りが恐れられた。【出典

■ 三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう): 1839−1900年。落語家。江戸時代以来の落語を大成した。「怪談牡丹灯籠」の速記による新聞掲載を許可した。二葉亭四迷の言文一致体に影響を与え、近代日本語を確立したと言われる。【出典

■ 慈円(じえん): 1155−1225年。九条兼実の弟。天台宗の最高位、延暦寺の天台座主。新古今和歌集の歌人としても有名。承久の乱の直前に、歴史書の愚管抄を著し、後鳥羽上皇の討幕計画を諫めたという。【出典

■ 志賀潔(しがきよし): 1870−1957年。伝染病研究所で北里柴三郎に師事して、赤痢菌を発見した。脚気の研究を進め、ドイツ留学を経験した。北里研究所の設立に協力した。【出典

■ 志賀直哉(しがなおや): 1883−1971年。東京帝国大学を中退後、白樺派の作家となり、簡潔な描写の短編小説で好評を博した。唯一の長編小説の暗夜行路は、日本近代文学の代表作の一つ。【出典

■ 宍戸隆家(ししどたかいえ): 1518−1592年。安芸国の五龍城城主。毛利氏の家臣になって、以後は信頼を得て毛利元就に重用された。一門の筆頭として江戸時代以降も毛利氏を支えた。【出典

■ 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう): 1872−1951年。加藤高明内閣で外務大臣をつとめ、協調外交を進めた。ロンドン海軍軍縮条約を締結して、終戦後に組閣して、国際協調につとめた。【出典

■ 信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが): 下野守の藤原行長と同人と推定され、「平家物語」を著した。【出典

■ 島崎藤村(しまざきとうそん): 1872−1943年。北村透谷らと文学界を創刊。劇詩や随筆を発表した。若菜集でロマン派詩人として名を成したが、破戒、夜明け前などで自然主義作家になった。【出典
・ 本名は春樹。「藤村」の由来としては、ゞ気┿劼虜監J綮辧覆垢韻魁砲卜をしたが、彼女には婚約者がいたため、漂泊の旅に出る。旅先で浮かんだ芭蕉の句の「草臥(くさびれ)て宿かる此(ころ)や藤の花」に因む。彼女の姓から「藤」の字を引用したなど諸説有る。【出典

■ 島左近(しまさこん): ?ー1600年。本名は島清興。大和国(奈良県)の在地領主で、筒井家に仕えた後、豊臣秀長豊臣秀保に仕えたという。その後、近江国の領主時代の石田三成に、破格の俸禄で召し抱えられた。文人派の三成は、左近の武勇を評価したといい、関ヶ原の合戦では奮闘むなしく、銃撃に遭って討ち死にした。【出典

■ 島村抱月(しまむろほうげつ): 1871−1918年。坪内逍遙と文芸協会を設立。松井須磨子との恋愛問題後には脱会して芸術座を結成した。【出典

■ 清水宗治(しみずむねはる): 1537−1582年。三村氏に仕えたが、敵方の毛利氏に与して家臣の身で備中国の高松城主になった。1582年の羽柴秀吉の中国攻めでは水攻めにあって、兵の助命を条件に切腹した。【出典

■ 下村観山(しもむらかんざん): 1873−1930年。狩野芳崖から橋本雅邦に師事し、東京美術学校を第一期生として卒業。岡倉天心の日本美術院設立に参加した。【出典

■ シャクシャイン: 1606?ー1669年。アイヌの首長。全アイヌ民族の蜂起を呼びかけ、松前藩に反乱をおこした。松前藩は和睦を申し入れたが、和睦の席でシャクシャインを殺害した。【出典

■ 周分(しゅうぶん): 相国寺の画僧。足利将軍家の御用絵師を務めた後、朝鮮に渡った。如拙の跡を継ぎ、水墨画を発展させた。【出典

■ 俊寛(しゅんかん): 後白河法皇の側近。鹿ヶ谷で、藤原成親らとともに平家打倒の陰謀を企てたが、露見した。鹿児島県の鬼海ヶ島に配流された。【出典

■ 定朝(じょうきょう): ?ー1057年。平安時代の仏師。現存する遺作に宇治の平等院本尊の阿弥陀如来像がある。仏像の主要部分に複数の木材を用いた寄木造の完成者として有名。【出典

■ 貞慶(じょうけい): 1155−1213年。法相宗の僧。解脱上人と称し、山城国の笠置寺に隠遁。僧侶の生活の乱れに対し戒律の復興に努めた。1205年に興福寺奏状を起草して法然の専修念仏を批判。法然の配流のきっかけとなった。【出典

■ 尚寧(しょうねい): 1564−1620年。琉球王国の国王。1609年に、薩摩藩島津氏の侵攻を受けて降伏。江戸に連行されて、二代将軍の徳川秀忠に謁見し、以後は琉球は明と薩摩藩の両属になった。【出典

■ 尚巴志(しょうはし): 1372ー1439年。初代の琉球国王。小国家、南山(なんざん)・中山(ちゅうざん)、北山(ほくざん)の三山を統一して琉球最初の統一王朝を成立させた。【出典

■ 如拙(じょせつ): 相国寺の画僧とされるが、不詳。宋元画を学び、日本における水墨画の先駆けになった。【出典

■ 陶晴賢(すえはるかた): 1521−1555年。大内義隆の重臣。1541年には毛利元就の郡山城を包囲する尼子氏の軍勢を撃破するなどの活躍した。しかし、義隆が重税を課して文治主義に傾き、領内での不満が高まったため、1551年に大寧寺の変をおこして義隆を自害に追い込んだ。晴賢は、大内義長を擁立し、領内での実権を握った。1554年に大内氏に従っていた毛利元就が離叛して厳島を占領すると、翌年、これを討つために大軍を厳島に集結したが、暴雨の中に夜襲をかけられて敗北して自刃した。【出典

■ 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ): 1008−1059?年。貴族の女性。藤原道綱母の姪。13歳で父の任地の上総国から帰京する旅に始まり、宮仕え、結婚、夫との死別などの回想録である更級日記で有名。【出典

■ 角倉了以(すみのくらりょうい)
・ 1554ー1614年。京の豪商。朱印船貿易が始まるとともに、安南(ベトナム北部)との貿易を始めた。私財を投じて大堰川や高瀬川の開削をしたほか、幕命で天竜川や富士川を開削。水上整備に尽力して、水運の父と呼ばれた。【出典

■ 諏訪頼重(すわよりしげ): 1516−1542年。信濃国諏訪の戦国大名武田信虎と結んで佐久地方に侵攻したが、武田信玄武田家を継ぐと関係が悪化。侵攻されて桑原城で降伏して自刃させられた。【出典

■ 諏訪頼忠(すわよりただ): 1536−1605。諏訪頼重の従弟。諏訪大社の神職であったが、本領を回復して諏訪家を再興した。信濃国に侵攻した徳川家康に敗れて臣従した。【出典

■ 世阿弥(ぜあみ): 1363?ー1443?年。猿楽師。足利義満の庇護のもと、教養をみにつけ、父の観阿弥と共に猿楽(能楽)を大成し、能の奥義を「風姿花伝」に著した。足利義教の時代に弾圧されて、1434年に、佐渡国に流された。【出典

■ 絶海中津(ぜっかいちゅうしん): 1336−1405年。夢窓疎石に師事した。1368年には明へ渡って、高僧から教えを受けた。帰国後、足利義満の命で上洛し、相国寺住持となった。【出典

■ 雪舟(せっしゅう): 1420−1502?年。禅僧。相国寺で周分に絵を学び、大内氏に庇護され周防国へ移った。1467年に遣明船で明に渡り、中国の画法を学び帰国した。帰国後は山口の雲谷庵を拠点として、全国を旅して日本の水墨画を確立させた。【出典
・ 「雪舟」は号。諱(いみな)は「等楊(とうよう)。中国の元の時代の禅僧の楚石梵(そせきぼんき)」による墨蹟(墨書された書で「雪舟」の二文字が書いてあった)を気に入ったことに由来する。【出典

■ 芹沢鴨(せりざわかも): 1827−1863年。新撰組の初代筆頭局長。神道無念流免許皆伝。1860年に、天狗党の前身の玉造組に参加した。尊皇攘夷を唱えた。1863年に浪士組に参加、近藤勇たちと新撰組を結成した。乱暴狼藉をはたらいて朝廷から逮捕命令が下り、八木邸で暗殺された。【出典

■ 善阿弥(ぜんあみ): 作庭師。被差別民(河原者)の出であったが、高い技術を買われて足利義政に重用された。子や孫と共に、慈照寺銀閣の庭園を造り上げた。【出典

■ 仙石秀久(せんごくひでひさ): 1552ー1614年。古くから豊臣秀吉に仕えて軍功を重ねたが、九州攻めの際の戸次川(へつぎかわ)の戦いの功に焦って大敗して改易された。徳川家康の斡旋で帰参が許された。徳川家康の死後は徳川氏に仕え、小諸藩(信濃国)の初代藩主になった。【出典

■ 千利休(せんのりきゅう): 1522−1591年。堺の商人で、宗易ともいう。武野紹鴎に師事し、わび茶を完成して茶の湯を大成させた。織田信長豊臣秀吉に仕えたが、大徳寺の山門に自らの木像を置いたことが秀吉の逆鱗に触れて自刃させられた。【出典
※ 鴎は「?(環境依存文字)」

■ 宗祇(そうぎ): 1421−1502年。正風連歌を確立した連歌師。京で連歌を学んだ。1495年に准勅連歌集の新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)を撰集した。【出典

■ 宗貞国(そうさだくに): 1422−1494年。対馬国の武将。一族をまとめて対馬での支配権を確立して、李氏朝鮮との通交を発展させた。少弐氏と共に大内氏と戦って、一時は九州北部に勢力を持った。【出典

■ 相馬盛胤(そうまもりたね): 1529−1601年。戦国大名伊達家と血縁関係にあったが、のちに決裂した。伊達政宗の侵攻にあって、戦いは長引いたが、豊臣秀吉に領地を安堵された。【出典】 

■ 副島種臣(そえじまたねおみ): 1828−1905年。佐賀藩士。明治政府では参議、外務卿として活躍。日清修交条規の批准で、清国皇帝に対等な国の代表として謁見し、賞賛された。松方正義内閣では内務大臣を務めた。【出典


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