「徳川」の名字の由来
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 「た」行の名字
「川・河」のつく名字  
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 徳川(とくがわ)

【2021/03/02:改編】

# 5763位

# 代表家紋

河内源氏新田氏流などにみられる。【全国分布

# 徳川氏は河内源氏の流れの新田氏の支流である得川(えがわ)氏の末裔で、新田義重の子の義季(よしすえ)が上野国新田郡得川郷を領し得川氏を称した。六代政義の時に新田義貞に従って本領を離れ、以後各地を転々とし、親氏の時に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の松平信重の婿となって松平を継いだとされる。得川は「えがわ」と読むが、もともとは「枝川」のことで、いわゆる川の枝分かれした支流を意味する。その後、「とくがわ」と読むようになり、「徳川」と記述するようになった。

# 江戸幕府の祖の徳川家康は、得川氏流として松平から徳川を名乗ったが、征夷大将軍になるには源氏の血統ということで、箔付けに使ったともいう。

# 幕末の300大名の中で、「徳川」「松平」を名乗る家は56家にのぼる。

# 家康は、永禄9年(1566年)に従五位下三河守の官位を得たときに、松平から徳川に改姓した。徳川家康の家紋

# 徳川実紀には、清和源氏新田氏流の得川氏の出となっているそうだが、これは出自を改竄したというのが定説のようだ。

# 家康の祖父の清康は得川氏の一族の世良田氏の出と言っていた。家康はともかく、その祖父の清康の時代には将軍を目指していたわけでは無いから、わざわざ新田氏に関連づけて出自を名乗る必要はないとも言える。そう考えれば世良田氏清和源氏新田氏の支流ですから、新田氏の出というのもあながち信憑性が無いわけでもない。しかし、将軍はおいといても昔は出自を無理無理こじつけた例は沢山ありますから、そう考えればやはり?だね。

# 家康の家臣の本多忠勝の先祖は京の加茂神社の神職。この加茂神社の神紋が「葵(アオイ)」。葵の紋はここに由来する。

# 茨城県の徳川家: 水戸黄門(中納言)でお馴染みの水戸家。尾張藩主紀州藩主は大納言だったが水戸藩主は中納言で定府大名。勤王精神が受け継がれていた。【家紋:水戸六つ葵】明治維新後には公爵。 

・ 水戸藩主。御三家の一つ。徳川家康の十一男の頼房が祖。1609年に頼房が兄の頼宣のいた水戸25万石に入封。1622年に28万石、1701年に35万石となった。二代藩主の光圀は「水戸黄門」として講談やテレビドラマでも有名。幕末、九代藩主の斉昭(烈公)は急転する政治の表舞台で活躍、七男の慶喜は将軍家を継いで徳川家最後の将軍となった。また、十八男の昭武は1867年に将軍慶喜の名代としてパリ万博に参加し、明治維新後兄の慶篤の没後水戸家を継いだ。明治時代には侯爵。【出典

# 東京都・静岡県の徳川家: 徳川宗家(将軍家)。【家紋:三つ葉葵紋】。静岡県(70万石)に転じ、明治維新後には公爵

・ 徳川将軍家。1566年に家康が従五位下三河守の官位を得て、松平氏から徳川氏に改めたのが祖。家康は幕府を開いた後に三男秀忠に将軍職を譲り、以後代々将軍職を世襲した。江戸時代には宗家と御三家(水戸・尾張・紀州)と御三卿(清水・田安・一橋)のみが徳川を称し、それ以外は松平氏を称した。15代慶喜のときに大政を奉還。明治維新後に16代家達は公爵となり、1914年には組閣の内命を得たが辞退した。慶喜は、明治維新後に宗家とは別に一家を興し、1902年に公爵。【出典

# 愛知県の徳川家: 御三家の尾張藩主徳川家康の九男の義直が祖。元和2年(1616年)に尾張藩62万石を立藩。【家紋:尾州三つ葉葵】明治維新後には侯爵。 

・ 尾張藩主。御三家の一つ。徳川家康の九男の義直が祖。将軍家に最も血縁が近く格式が高いとされた。1607年に義直が尾張清洲に入封し、名古屋城を築城して1616年に尾張藩62万石を立藩した。七代宗春は華美な政策を推し進めて将軍吉宗から隠居させられた他、九代宗睦は名君として知られる。1884年には侯爵。松平春嶽(慶永)の五男で義礼の女婿として尾張家を継いだ義親は植物学者としても著名。また徳川林政史研究所の創立者でもある。長男の義知は徳川美術館を創設した。現在の二十一代目当主の義宣も旧佐倉藩主の堀田家からの娘婿で美術史家として活躍する一方、家康の研究家としても知られる。明治維新後、17代目を再継承した慶勝は、18代目を養子の義礼に譲った後に義恕(よしくみ)が生まれたため、義恕は1888年に分家して一家を興し男爵を授けられ、後に侍従を務めた。その長男の義寛は昭和天皇の侍従を務め、終戦前夜の近衛師団反乱の際に玉音放送の録音盤を守った話で有名。【出典

# 和歌山県の徳川家: 紀州藩主。御三家の一つで、八代将軍吉宗をだした。徳川家康の十男の頼宣を祖とし、慶長8年(1603年)に頼宣が常陸国水戸20万石を領し、駿河国遠江国・東三河国50万石を経て、元和5年(1619年)に紀伊55万5千石を領した。【家紋:紀州六つ葵】明治維新後には侯爵。 

・ 紀州藩主。御三家の一つ。徳川家康の十男の頼宣が祖。1603年に頼宣が常陸水戸20万石を与えられて水戸藩を立てた。翌年に25万石に加増。1609年には駿河・遠江・東三河で50万石。家康の死後の1619年に紀伊55万5000石に入封した。五代藩主の頼方は将軍家を継いで八代将軍吉宗となった他、十三代藩主慶福も十四代将軍家茂となった。西条藩主松平頼学の七男から継いだ茂承は明治時代に侯爵。【出典

# 紀州徳川家の今

【知って楽しい「苗字」のウンチク 丹羽基二 PHP文庫】

# 徳川(とくがわ)

・ 旧上野国に得川の地名があり、「えがわ」「とくがわ」と読み、江川や徳川とも書いた。

# 徳川(とくがわ): 群馬県太田市(旧尾島町)徳川町。
・ 徳河郷: 鎌倉時代から室町時代に上野国新田郡新田荘にみられる郷名。「尊卑分脈」によれば、新田義重の第4子義季は得川四郎と称し、その子に頼有がいる。また頼有の女子は岩松経兼妻であり、その所生の子政経の幼名が亀王丸である。当郷は譲渡によって得川氏から岩松氏のものとなった。【出典

# 本来、「とくがわ」の「とく」は旧字体の「」で、現在でも末裔の方々は「川」と書くそうですが、このサイトでは新字体の「徳川」表記とさせていただいています。

# 「徳(とく)」の語源


■ 徳川宗家の現当主は、幕末の会津藩主の松平容保の曾孫?

■ 徳川譜代【徳川家臣団の謎  菊地浩之 角川選書】
・ 安祥譜代: 酒井家大久保家本多家阿部家石川家青山家植村家
・ 岡崎譜代: 鳥居家榊原家安藤家水野家土井家牧野家戸田家奥平家井伊家

■ 徳川家

■ 徳川家康 ・ 水戸光圀 ・ 徳川秀忠 ・ 徳川家光 ・ 徳川綱吉 ・ 徳川吉宗 ・ 徳川慶喜

■ 「岩松家」は徳川家の本家筋?

■ 尾張藩 ・ 紀州藩 ・ 水戸藩

都道府県毎の名字の特徴 名字の様々な区分
難読名字 難読地名・珍地名
地名と災害 名字の博物館
名字と地名・都道府県編 民俗学の広場内の検索

■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。詳細】 

統計表示