徳川慶喜
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■ 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ): 「徳川」の名字の由来

・ 1837年〜1913年。

・ 徳川幕府十五代(最後)の将軍

・ 「徳川(苗字)」+「慶喜(諱)」

・ 幼名: 七郎麻呂
・ 通称: 一橋慶喜(けいき)
・ 別名: 松平昭致(あきむね)
・ 階位: 正二位内大臣(明治になって従一位)
・ 号: 興山

・ 「大坂から江戸に逃げる船に妾を乗せていた」という噂?実際、この女性は将軍を護衛し、二条城や江戸を守った江戸火消し(十番組)の「新門辰五郎」の娘のお吉という。まぁ、恩人の娘を戦火の地の大坂においておけなかったということらしい。慶喜と辰五郎を引きあわせたのは、勝海舟

・ 慶喜は大政奉還後、実家の水戸に引き上げて謹慎した。明治35年に公爵を授けられた。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】 

・ 徳川慶喜家

■ 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【出典

・ 1837−1913年。享年77歳(病死)。

・ 出身地: 江戸。

・ 肩書き: 江戸幕府の十五代将軍。

・ 家族: 父:徳川斉昭

・ 家紋: 三つ葵紋。

・ 水戸藩主の徳川斉昭の七男として江戸に生まれた。斉昭は慶喜の素質を見抜いて、二代藩主の光圀の教育方針どおり、華美な江戸ではなく地元で学問と武術を学ばせた。十二代将軍の徳川家慶は、10歳の慶喜を十三代将軍の候補に推したが、老中の阿部正弘の諫言で実現しなかった。井伊直弼が日米修好通商条約を結ぶと、慶喜はそれに対して直弼を責めたため謹慎となった。安政の大獄の後に、謹慎がとけて幕府首脳に抜擢された。その後十五代将軍となり、前土佐藩主の山内豊信の勧めで大政奉還を決断した。江戸城の無血開城後には、上野の寛永寺で謹慎、その後駿府で隠棲した。


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