酒井家 | |
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■ 酒井家(さかいけ): 「酒井」の名字の由来
# 酒井家
・ 酒井家の祖の酒井雅楽助広親は松平家の初代親氏の子と言われ、酒井家は譜代の家臣の筆頭といわれる。「寛政譜」には「雅楽助広親は親氏の男にして、母は酒井与右衛門某が女なり。三河国幡豆郡酒井村に生まれしより酒井を称し親氏につかふ」とある。つまり、松平家の初代の親氏が松平家に婿入りする前に、三河国幡豆郡酒井村の酒井与右衛門の婿養子となり、一子をもうけたが、妻と死別したため、さらに放浪して松平家に迎えられた。親氏の遺児の広親が酒井家の祖という。しかし、これは伝説に近い内容という。
・ 酒井家の祖の広親の長男の家系は雅楽助(うたのすけ)を称し、次男の家系は左衛門尉を称した。つまり、酒井家の流れには「雅楽助家」と「左衛門尉家」がある。
・ 雅楽助家の酒井雅楽頭政家の嫡男の河内守重忠は、徳川家康の関東入国後に武蔵国川越1万石。関ヶ原の戦い後には上野国の厩橋藩3万3千石。子孫は播磨国の姫路藩15万石。分家には、若狭国の小浜藩10万3500石、上野国の伊勢崎藩2万石、越前国の敦賀藩1万石、阿波国の勝山藩1万2千石などがある。
・ 左衛門尉家の酒井左衛門尉忠次は「徳川四天王」の一人。その子の家次は家康の関東入国後下総国臼井3万石。関ヶ原の合戦後には上野国の高崎藩5万石。その後、越後国高田10万石。子孫は信濃国松代を経て、出羽国の庄内藩17万石。出羽国の松山藩2万5千石は分家。
【出典: 徳川家臣団の謎 菊地浩之 角川選書】
# 代表家紋
# 酒井家(出羽国庄内藩)
・ 酒井左衛門尉家。初代の酒井忠次は徳川家康の父親の松平広忠に仕え、広忠の死後は今川家の人質になっていた家康に仕えた。徳川四天王の一人。二代の家次は下総国の臼井3万石。関ヶ原の戦いの後には上野国の高崎藩5万石。大坂の陣後には越後国の高田藩10万石。三代の忠勝は信濃国の松代藩、そして出羽国の庄内藩13万8千石。明治維新後には伯爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】
# 酒井家(播磨国姫路藩)
・ 酒井雅楽頭家。初代の酒井重忠は徳川家康のもとで、今川攻めなどに従軍した。家康の関東入国後には武蔵国の川越1万石。関ヶ原の戦いの後には上野国の厩橋藩3万3千石。二代目の忠世は厩橋8万5千石で、土井利勝とともに老中となり、三代の忠行は15万2千5百石。四代の忠清は大老を務めた。九代の忠恭は、九代将軍の家重のもとで老中首座、前橋が利根川の洪水で悩まされることから、転封を願い出て、播磨国の姫路藩15万石へ。幕末には、十六代の忠績が老中上座をつとめ、後に大老になった。十七代の忠惇が老中上座として鳥羽・伏見の戦いに挑み大敗。姫路城は備前国の岡山藩に包囲されて明け渡した。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】
# 酒井家(若狭国小浜藩)
・ 酒井雅楽頭家の庶流。二代の忠勝は川越藩8万石から、寛永11年に若狭国の小浜藩11万3千5百石。寛永15年には大老となる。幕末には十三代の忠義が京都所司代を務めた。鳥羽・伏見の戦いでは幕府側についたが降伏。十四代の忠氏の嫡男の忠道は伯爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】
# 徳川譜代の酒井氏も大江氏の出を称している。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】