武蔵国
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 旧国名と地名Top

スポンサーリンク
スポンサーリンク

# 旧東海道。

# 現在の埼玉県東京都神奈川県の一部。

# 太閤検地での石高: 67万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。武蔵国は6位。

・ 「ムサシ」は以前は「牟邪志」や「牟佐之」などとあてた。
・ 「ムサ・シ」で、「むさ苦しい」の「ムサ」で、荒れた土地をあらわしたもの。
・ 「ム・サシ」で「胸刺」の表記もあり、「雑草が胸を刺すほど生い茂っている」状態を表す。
・ 古くから朝鮮語説、アイヌ語説などもある。
・ 大化の改新以前は、相模国と武蔵国は「武射(むさ)」と呼ばれる一体の行政組織だった。後に「武射上(むさかみ)」と「武射下(むさしも)」に分かれ、「武射上(むさかみ)→相模(さかみ)」と「武射下(むさしも)→武蔵(むさし)」と変化した。
・ 武蔵の「むさ」は古語で俘囚を意味した。【東京の地名 地形と語源をたずねて 筒井功 河出書房】
・ 武蔵国の国名も、古くは「ムナザシ」で、焼き畑地名と考えられている【参考

# 武蔵: 渡来人が多い土地だったので大領地(マルチャチ)から出たとも言われる。【日本地名学を学ぶ人のために 吉田金彦・糸井通浩 世界思想社】

# 大和朝廷は、辺鄙で稲作のできも悪い関東地方渡来人を送り込んだ。埼玉県の高麗郡はその名残の一つである。

# 和同開珎で有名な「和銅」という年号も、日本で初めて武蔵国秩父から銅を産出したのをうけてつけられた。

# 武蔵国
・ 秩父郡、多摩郡、都築(つつき)郡、久良岐(くらき)郡、橘樹(たちばな)郡、荏原郡、豊島郡、入間郡、高麗郡、新座(にいくら)郡、安達郡。
・ 国府: 府中市
・ 国分寺: 国分寺市

# 武蔵国は古代より朝廷に献上する馬の生産地の一つだった。府中で開かれる馬市は有名だった。

# 東京都庁のあたりは武蔵国豊多摩郡淀橋村。

# 武蔵国新羅(新座)郡: 続日本紀によると、淳仁天皇のころ、新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移して新羅郡をおいたとある。

# 武蔵国高麗郡: 続日本紀によると、霊亀二年に駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野の高麗人1799人を移住させて高麗郡をおいた。

# 武蔵国造の祖は天穂日命(あめのほひのみこと)。

# 武蔵国(むさしのくに): 大化前代の「無邪志」の名を継承したもので、「和名抄」の訓は牟佐之とするが、本来は「むざし」と濁ったものであろう。国名の由来については、もと身狭(むさ)の国と称していたのを身狭上・身狭下に分け、前者が「さがみ」、後者が「むさし」となった、駿河・相模・武蔵の地を総称して佐斯(さし)の国と称していたのを上・下に分け、佐斯上(さしがみ)が「さがみ」、佐斯下(さししも)が「むさし」となった、安房・上総・下総を含めて総(ふさ)の国といった一部が「ふさがみ」「ふさしも」に分かれ、前者が相模、後者の「ふさし」が武蔵に転訛したなど種々の説がある。【出典

# 平治の乱後、武蔵国は平清盛の領地となり、武蔵守には清盛の子の知盛が任ぜられた。

■ 足立(あだち)郡: 武蔵国の郡名。初見は「続日本紀」。郡名の由来については、池沼多く蘆(あし)が繁茂していたため蘆立と称したことに始まるとする松平定常の説がある。【出典

■ 入間郡

■ 荏原(えばら)郡: 武蔵国にみられた郡名。初見は「万葉集」。江原・縁原・永原(武蔵風土記)などとも書く。 郡名の由来は、荏(エゴマ)が繁茂する所の意という。はじめ「江波良」と清んで呼ばれていたが、江戸期以降「えばら」と濁って呼ばれるようになった。【出典

■ 大里郡

■ 男衾(おぶすま)郡: 武蔵国の郡名。
・ 「新編武蔵」には、「郡の地勢を考うるに、東の方は平衍の地にて、中央より西の方へは次第に高くして、そのはてに至りては、秩父郡の群山に連りて山々重り立り」と書かれている。武蔵国のやや北部に位置し、四囲の境は大里(おおさと)・比企(ひき)・秩父(ちちぶ)・榛沢(はんざわ)の各郡と接しているが、各郡との境界はしばしば変動している。【出典

■ 葛飾(かつしか)郡: 当初は下総国、後には下総・武蔵国の郡名。葛餝とも書き、「万葉集」は加豆思加・勝鹿・可都思賀などと書き、「和名抄」は加止志加とする。地名の由来は、武蔵野の東方に続く原野で、葛が繁茂していたことにちなむという(古事類苑・下総国旧事考)。現在の東京・千葉・埼玉の1都2県にまたがる地で、現在の都域では、葛飾・墨田・江東・江戸川の4区が郡内にあたる。【出典
・ 葛飾(かつしか): 「勝鹿」とも書き、古くは「かづしか」とも言った。現在の東京都・千葉県・埼玉県にまたがる江戸川流域の地域を指す。

■ 賀美郡

■ 久良(くらき)郡

■ 児玉(こだま)郡: 武蔵国の郡名。郡名の由来は、蚕玉より起こったもので古くから養蚕が盛んであったことを示すとする説や、砕銀を小玉というので古くから銀・銅を産出したことによるとする説などがある。武蔵七党の1つ児玉党の拠点となったところで、現在の本庄市の地名は、児玉党の嫡流が累代居住したので本庄と称したという。【出典
※ 児玉(こだま)郡の語源は「蚕玉(こだま)」だったのかぁ〜。【地名でたどる埼玉県謎解き散歩 新人物文庫】

■ 高麗(こま)郡: 武蔵国(埼玉県)にみられた郡名。武蔵国のほぼ中央部に位置し、外秩父(そとちちぶ)丘陵地帯に属している。郡名の由来は、高麗人を移して新たに郡を設置したことによる。文献上の初見は、「続日本紀霊亀2年5月条に「以駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉」とある記事。高麗王若光の子孫は高麗氏を名乗り、若光を祀る高麗神社の宮司を代々継承するとともに、この地方の武士として勢力をもっていた。【出典
・ 高麗郷(こまのごう): 平安時代に武蔵国高麗郡にみられた郷名。「和名抄」高麗郡2郷の1つで、訓みは古万。「続日本紀」には霊亀2年駿河・甲斐・相模など7か国の高麗人1、799人を武蔵国に移し、同国に高麗郡を設置したとあり、当地はその中心となったと思われる。現在の日高市大字高麗本郷に比定される。【出典
・ 参考: 「高麗」の地名
・ 武蔵国高麗郡高麗郷、山梨県高麗郡など。
・ 高句麗からの渡来人の居住地。
・ 「続日本記」に、霊亀2年5月条に、東国の高麗人1799人を移して、高麗郡を置く」の記述がある。
・ 高麗の若光王は、関東に分散していた高麗人1800人を集めて、武蔵国に高麗郡を開いた。日高町の高麗神社の神職は今も高麗氏が務める。王族以外の高麗人は狛(こま)を名乗ることが多かった。
・ 続日本紀によると、霊亀二年に駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野の高麗人179999人を移住させて高麗郡をおいた。

■ 埼玉郡

■ 橘樹(たちばな)郡: 旧武蔵国。「和名抄」の訓は太知波奈、「伊呂波字類抄」も「タチハナ」とある。郡名の由来については、日本武尊の東征説話の弟橘妃に付会する説もあるが、天平10年の駿河国正税帳に「相摸国進上橘子 御贄部領使」として余綾(よろき)郡散事丸子部六国が見え、この御贄橘子の発生地だったのであろう。「日本書紀」安閑元年閏12月条に、武蔵国造笠原直使主が朝廷に4か所の屯倉を献上したとあるが、その1つ橘花屯倉を中心として成立したと推定される。【出典

■ 多摩(たま)郡: 武蔵国にみられた郡名。多麻・多磨などとも書き、訓を太婆ともする。初見は「延喜式」。
・ 武蔵国の郡名。多麻・多磨などとも書き、訓を太婆ともする。初見は「延喜式」。「安閑天皇紀」に「元年、武蔵国造笠原直使主、為国家奉置横渟、橘花、多氷、倉樔四処屯倉」とある多氷は多米あるいは多末で、当郡を指すという。【出典
・ 江戸期には、郡内の村々は府中・柚木(ゆぎ)・日野・由井・小宮・三田(みた)・拝島(はいじま)・山口・野方(のがた)・世田谷(せたがや)の10領に分属。【出典】【「タマ」の語源

■ 秩父(ちちぶ)郡: 武蔵国の郡名。初見は「続日本紀」。郡名の由来は、「国造本紀」などに見られる知々夫(ちちぶ)国造の支配下にあった国名からきているが、「ちちぶ」の名称は、秩父山中にある鍾乳洞の石鍾乳(いしのち)の形態によるかとの説がある。【出典

■ 都筑(つづき)郡: 古代から近代に武蔵国にみられた郡名。「和名抄」の訓は豆々岐、「伊呂波字類抄」も「ツゝキ」とする。律令制下では武蔵国二十一郡の1つ。平安中期以降、武士が勃興するに伴い、当郡にも綴(都筑)党と称する武士団があらわれ(源平盛衰記)、「古今著聞集」巻10には、平家の郎等であったため召し捕えられていた「武蔵国住人、つづきの平太経家」が馬術にすぐれていたことから源頼朝にゆるされて、厩の別当になったという話が伝えられている。【出典

■ 豊島(としま)郡: 
武蔵国にみられた郡名。初見は「続日本紀」。砥島とも書き、「和名抄」は訓を「止志末」とする。往古、古東京湾は郡の東端部にまで入り込んでおり、郡名の由来は、沿岸に多くの島があったことによるか。【出典
・ 古代: 「続日本紀仁徳天皇十八年春の条に「令戸田真人蒐武蔵国豊島郡、得二頭之狐而帰奏」とあり、早くから有力な豪族がいたことが知られる。
・ 中世: 平安末期以来、郡内には秩父流平氏良文流の江戸氏や豊嶋氏が蟠踞し、鎌倉幕府草創期に活躍した。
・ 鎌倉〜室町期には、江戸氏の本拠江戸郷、豊嶋氏の本拠石神井(しやくじい)郷をはじめ、江戸郷内前島(まえじま)村・同森木村、小具(おぐ)郷・桜田郷などの郷名・村名が見える。
・ 室町末期になると郡の東南端平川河口部に太田道灌江戸城を築城、江戸城はやがて小田原北条氏の支城となり、多摩郡の八王子城とともに武蔵経営の拠点に位置づけられる。
・ 近世: 天正18年、徳川家康江戸城に入城、家康の江戸城拡張と城下町建設で郡の南部は御府内となった。【出典
# 豊島(としま): 武蔵国(東京都豊島区)。砥島・戸嶋とも書く。地名の由来は、河口に洲がたくさんあったことを表すという説、古代豊島の駅所在地という説、豊嶋清光の館があったことに結びつける説などがある。古代からの地名で、武蔵国の郡名として、天平勝宝7年2月の防人の歌に「豊島郡上丁、掠椅部荒虫之妻宇遅部黒女」と見え(万葉集)、駅名としては、神護景雲2年3月1日の条に「武蔵国乗潴、豊島二駅」と見え(続日本紀)、郷名として「和名抄」の武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡とに「豊島」がある。のち地名は区名に使われた。【出典
# 豊島: 東京都豊島区。旧郡名による。豊島郡の名前は豊島郷(北区豊島)から起こったもの。「ト(高所)」+「シマ(場所)」という地名で、「川に囲まれた島状の高地」の意味だろう。【出典

■ 那珂(なか)郡: 武蔵国の郡名。那賀とも書く。郡名の由来は、賀美(かみ)(上)郡に対する那珂(中)郡の意とされる。【出典

■ 新座(にひくら)郡: 武蔵国。新羅郡の初見は、「続日本紀天平宝字2年8月条に「帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉」とある記事で、新羅人を武蔵国に移住させて新たに新羅郡が設置されたのである。また同書宝亀11年5月条には「武蔵国新羅郡人沙良・真熊等二人賜姓広岡造」という記事もある。しかし「延喜式」では新座と書かれており、そのころまでにはすでに新羅郡から新座郡への名称の転化が行われていたものと思われる。「和名抄」では新座は「爾比久良(にひくら)」と訓じられており、志木・余戸の2郷があげられ、小郡。郡衙の所在地は志木郷(現在の志木市志木付近)と推定される。【出典
・ 志木郷(しきのごう): 平安期から見える郷名。新座(にいくら)郡のうち。「和名抄」新座郡2郷の1つ。郷名の由来は、新座郡の中心であったことによる。本来は志楽(しらぎ)郷であったという。新座郡の古称である新羅(しらぎ)郡の「新羅」が「志楽」と転じて郷名となり、さらにその「楽」を草体に書したため「木」に近似して誤りを招いたとする。高山寺本「和名抄」の志未郷も同様。また志羅木あるいは志楽木を中略して志木になったともいう。【出典
・ 奈良時代の後半に、武蔵国に「新羅郡」がおかれた。その後「新座郡(にいくらぐん)」と変化し、「座」が「くら」とは読み慣れないので「新倉」と書くことも多かった。また「新羅」は「志良木(しらぎ)」ともかかれ、「白木」に転じた。【埼玉 地名の由来を歩く 谷川彰英 ベスト新書】

■ 幡羅(はたら)郡: 武蔵国の郡名。播羅とも書く。もとは「はら」と訓み、「はたら」と訓むようになるのは近世以降。初見は「続日本後紀」。【出典

■ 榛沢(はんざわ)郡: 武蔵国の郡名。郡名の由来については、「新編武蔵」では「古(いにしえ)榛沢村の辺大なる沢あり、其左右に榛の木立りし由、今も其辺榛の大木許多ある類、土地榛に宜きこと知べし、郡名の所由も是が故ならん」という説をたてている。【出典

■ 比企(ひき)郡

■ 横見(よこみ)郡: 武蔵国の郡名。中世には吉見郡と書かれることが多い。郡名の由来については、この郡の位置が古代の主要道路から横に見えることから起こり、のちに縁起を好んで吉見に改めたとする説がある。【出典


■ 東京スカイツリーの高さは634mですが、これは「むさし」国による。

■ 「三代実録」貞観3年(861年)11月16日の条に、「武蔵国には当時悪人たちが充満し、国衙の検非違使だけでは管内の治安が維持できない。」とある。【武蔵武士 そのロマンと栄光 福島正義 さきたま出版会】

■ 1697年(元禄9年正月24日: 24日から25日にかけて江戸で大火事がおきた。鞘町より出火して大火事となる。【朝日文左衛門「鸚鵡籠中記」 加賀樹柴朗 雄山閣】

■ 

統計表示