松平家 | |
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■ 松平家(徳川家)
# 代表家紋
【松平の雑学】
・ 十八松平は実数ではなく、家康以前の松平氏八代の間に分出した松平庶家の総称であったともいう。
・ 松平忠直は越前勢を引き連れて奮戦、3700余の首をあげ、真田隊を壊滅させた。
・ 松平氏の祖の親氏と父親の有氏は、流亡の旅をした。生まれは上野国の新田荘の徳河郷(群馬県太田市)で、親氏の初名を世良田次郎三郎、または徳川次郎三郎と言った。この流浪の旅の原因として、いくつかあるようだが、関東管領の上杉氏が鎌倉公方に反逆したときに、親氏らは上杉氏に荷担し、敗北。足利方の探索を逃れるためとも言う。親氏は三河に流れ、坂井郷(愛知県幡豆郡吉良町酒井)の坂井氏に婿養子として迎えられた。ここでもうけた子は後の徳川四天王の一人の酒井忠次の先祖という。しかし、その後妻が亡くなったため、親氏は三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)に移ったという。【松平家の謎 歴史読本編集部 新人物文庫】
・ 元々、「松平」は賀茂姓だった。征夷大将軍の資格のある源氏になるために徳川とした。
・ 室町時代に活躍した、三代目の松平信光は、若い頃に谷間の松平郷から平野部の岩津に本拠地を移し、晩年には安祥(安城)に転じた。信光には40人もの子があり、松平一族が西三河で勢力を持った。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
# 十四松平家(十八松平家ともいう): 枩(まつ)は松の異体字だが、この字を分解して「十」「八」「公」、つまり「十八松平」という言葉が先に出来て、後に「各家」を当てはめたという。その後、江戸時代に大名又は大身の旗本になった十四家を指して「十四松平家」とした。
# 三木松平家(みつぎまつだいらけ): 三木家: 松平信忠の二男の信孝が三河国碧海郡三木(愛知県岡崎市)に住んで三木松平氏を称した。【出典】
・ 三ツ木松平家は、信忠の次男の信孝が三河国碧海郡合歓木村(愛知県岡崎市合歓木町)に分知されたことに始まる。子孫は江戸時代に5百石を領した。
# 福釜松平家(ふかままつだいらけ): 福釜家: 松平長親の二男の親盛が永正年間に三河国碧海郡の福釜城(愛知県安城市)に拠ったのが祖。【出典】
・ 福釜松平家は、長忠の次男の親盛が三河国碧海郡福釜(愛知県安城市福釜町)に分知されたのに始まる。子孫は、江戸時代には1100石を領した。
# 松平郷松平家: 松平泰親の庶長子の信広を祖とする。家康の関東入国に際して一旦関東に移ったが、1613年に家康に願い出て旧領の松平郷に戻った。後に交代寄合440石。【出典】
■ 松平家の三代の信光が三河国岩津の妙心寺に仏像を寄進し、その胎内に「加茂朝臣」という名を残している。つまり、山城国の加茂氏の末裔を称している。また、三河国には加茂神社の神領が多く、加茂郡、加茂郷、渥美郡加茂村など「加茂」の地名も多い。従って、加茂朝臣の一族が三河国に移り住んだ可能性がある。そして、この加茂神社の神紋が葵の紋。これらから、三河松平氏は加茂氏の出と思われる。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】
■ 越前松平家 ・ 大河内松平家 ・ 奥平松平家 ・ 鷹司松平家 ・ 久松松平家
■ 「松平」を称した家。
■ 松平家は足利将軍の側近の伊勢氏の被官となって傭兵業のようなものもやっていた。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
■ 三河の一向一揆は、元康が家康とあらためた、1563年9月に発生した。1566年には松平から徳川に改姓した。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
【参考資料】
# 誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫
# 徳川家臣団の謎 菊地浩之 角川選書 他
# 江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社