能見松平家
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■ 能見松平家(のみまつだいらけ): 松平家

# 信光の八男の次郎右衛門光親が三河国額田郡能見(愛知県岡崎市元能見町)に分封されたのに始まる。しかし、実際は西郷松平家の家臣だったともいう。

# 五代の昌利の子孫は旗本

# 次郎右衛門重吉の四男の伝三郎重勝は1612年に松平忠輝家老となり、越後国蒲原郡三条で2万石。忠輝が改易後、下総国関宿藩2万6千石。子孫は、出羽国上山藩摂津国三田藩を経て、豊後国杵築藩3万2千石。

# 能見松平家(豊後国杵築藩):  徳川将軍家の庶流で三河国能見郷をルーツとする。古くから、松平家に仕え、初代の重勝は家康の六男の忠輝が越後国高田藩主となった際に、付家老として越後国三条2万石を与えられた。その後、忠輝が改易されると、幕臣となり下総国関宿藩2万6千石から遠江国横須賀藩へ。二代重忠は出羽国上山藩転封。三代重直は摂津国三田藩3万石。四代の英親が豊後国杵築藩3万2千石。なお「杵築」はもとは「木付」だったが、将軍家の朱印状に「杵築」と書かれていたので「杵築」と改めた。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 信光の八男の光親を祖とし、三河国額田郡能見(愛知県岡崎市)を本拠地とした。松平忠輝の付家老を努めたが、忠輝の失脚後には関宿から遠江国横須賀城主兼駿府城代、上山、三田、豊前竜王、豊後高田と転じ、1645年に豊後国杵築藩主3万2千石。その後転封を重ね、1684年に改易。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 能見松平: 松平信光の八男の光親が三河国額田郡能見(愛知県岡崎市)に住んだのがルーツ。江戸時代には松平忠輝の付家老として越後国三条で2万石を領したが、忠輝が失脚したため関宿を経て、遠江国横須賀兼駿府城代となった。その後、出羽国上山、三田、豊前国竜王、豊後国高田を経て、1645年に豊後国杵築3万2千石。

# 能美家: 松平信光の八男の光親が三河国額田郡能美(愛知県岡崎市)に住んだのが祖。徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後は松平忠輝の付家老として越後国三条2万石。忠輝が改易後には幕臣にもどり、下総国関宿藩2万6千石。後に遠江国横須賀から各地を転々とし、豊後国杵築藩主。【出典

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